今回は、私とメンバーの秦義人で某ファミリーレストランにて取材しました。
以後、山川さん(Y)、秦(H)、服部(I )とさせて頂きます。
H:I:今日は宜しくお願いします。
Y:宜しくお願いします。
I:早速ですが、山川さんが音楽を始めたきっかけと言うのは何でしょうか。
Y:近所に、ハワイアンバンドをやってる方が居ましてその方の影響で始めました。
I:当時はハワイアンバンドは結構有ったんでしょうか。
Y:そうですね、まだGSが始まる前でしたからハワイアン、ウエスタンが主流でしたね。
H:その頃、山川さんはおいくつだったんでしょう。
Y:12・3歳くらいでした。それでそのバンドのバンドボーイのような事をしてました。それでその音楽に影響を受けましたね。
I:最初に買われたレコードと言うのはなんだったんでしょうか。
Y:はっきりと覚えていないのですが、中古レコードでヨルゲン・イングマンの「アパッチ」と「リバティバランスを撃った男」、ジョニー・バネットだったかな…ではなかったかと思います。
I:「アパッチ」は、僕はベンチャーズのバージョンで知っています。うちのバンドでも初期にやっていました。
それで、最初にバンドを組んだのは、何時だったんでしょう。
Y:15歳くらいの時だったかな、学校の仲間と始めました。
H:それはもうエレキだったんですか。
Y:そうですね。
H:ハワイアンからエレキに行くきっかけと言うのは…
Y:それがGSだったんでしょうね。(笑) まあ、当時の勝ち抜きエレキ合戦のような 番組の影響もありましたが。
I:15歳の頃はじめられたと言う事はまもなくルビーズに入ることになるんですよね。
Y:そうですね。
I:ルビーズに入られたきっかけと言うのはなんでしょうか。
Y:良く覚えていないのですが、僕と立川と(音楽評論家の立川直樹氏、ルビーズ のメンバーでも有りました。)遊びでバンドをやっていたんです。
H:そのバンドでは、テケテケ系ではなくてもうすでに歌物だったのでしょうか。
Y:そうですね。マージービート物をやっていました。僕たちが抜けた後は解散してしまいましたけどね。
I:それは最初のバンドですか。
Y:いやいや、もう10個くらいやってました。それで、新宿の「風月堂」(当時のヒッピーの溜まり場的な所、加賀まりこさんもここの出身。)の遊び人たちの間で新しいバンドのメンバーを募集していると言う情報が有って、立川と二人で行こうと言う事になって行ったんですよ。確か、「青い三角定規」の高田まりさんから話が来たと覚えているんですけどね。高田さんとは立川さんが知りあいだったんです。
それで、前のメンバーが辞めたんでベースとギターが欲しいと言う事だったんですね。そこで、ポリドールのスタジオで僕のオリジナルと「ダイヤモンド・ヘッド」を演奏したんです。そうした所、じゃあ明日から来てくれって…(笑)
ルビーズのプロデューサーの方が審査したんだと思います。
H:そのオーディションの後、来てくれというのは、練習ですかそれともステージと言う事でしょうか。
Y:ステージですね。
H:これからプロでやって行くと言う事について何か思われたことは有りましたか。
Y:特には有りません。今までの延長で音楽を続けて行く事が出来ると言うのがうれしかったですね。
H:因みに資料によりますと、「さよならナタリー」と「渚のルビー」が先行して発売になっていて、山川さんが入られてから「恋のピストル」の発売ですね。
「恋のピストル」を貰った時の感想はどうでしたか。
Y:ダサい曲だなあって…(笑)
やりたくなかったんですがしょうがないですよね。
H:ステージでは、以前のナンバーも演奏したんですよね。
Y:たまにはやりましたね。
I:ルビーズの活動拠点と言うのは、やはりジャズ喫茶ですよね。
ドラムやACBにも出られたのでしょうか。
Y:あれは、系列が有って出来ないんですよ。横浜のACBは出ましたが。
殆ど場末のB級の所が中心でしたね。
H:やはり、米軍基地の辺りのクラブには出られていたのですか。
Y:そうですね、横浜、横須賀の辺りが多かったです。
EMクラブといって将校が行く所とか。
H:やはりそう言う時のレパートリーと言うのは洋楽ですよね。
Y:そうです。レコードがポリドールから只で貰えたのでそういう所からピックアップしてやっていました。
I:リハーサルはどのような所でやっていました。
Y:グラモフォン芸能出版(ポリドール)と言う所に居ましたので、そこの録音スタジオでやってました。天気の良い日などは多摩川の川原でコーラスを練習していましたね。
I:レコーディングの際、リハーサルはどのくらいやられたのでしょうか。
Y:3時間くらいですね。(笑)
H:「恋のピストル」の時もそうだったでしょうか。
Y:そうです。オケは全部(スタジオミュージシャンで)出来てたので、唄入れだけでしたからね。当時はそうした録音のGSは多かったんじゃないですかね。
I:演奏はすべてスタジオミュージシャンで、自分たちは歌だけと言う事に関してはどう思われましたか。
Y:何とも思ってなかったですね。(笑)
仕事の一環と思っていましたから。
ただ、自分たちのアルバムを作ると言う話であれば断っていたとは思いますけどね。
I:ルビーズは、何年くらいまでの活動だったんでしょうか。
Y:69年くらいまででしたかね。良く覚えていませんが、GSブームが落ち着いて会社の方針で(解散が)決定したのではないですかね。
I:当時お好きな音楽はどのような物でしたか。
Y:僕は黒人系はだめなので、マージービートの物、デイブ・クラークとかサーチャーズとか好きでした。
I:1ステージはどのくらい時間だったんですか。
Y:大体30分くらいですね。それを4〜5回くらいやってたと思いますね。
場所によって、対バン有る時と無い時とありました。
I:当時のGSムーブメントについてはどの様に感じていましたか。
人によっては、不本意ながらのバンド活動をしているように感じていた方もいると聞きますが。
Y:うーん、そうですね。僕等は、GSと言う意識はありませんでしたし、他のバンドみんなそう思ってたんじゃないですかね。
僕は只、好きな音楽が毎日できて楽しかったです。
I:ルビーズを辞められたメンバーは、その後はどうされたのでしょう。
Y:菊谷さんは、平田さん(平田隆夫とセルスターズ。菊谷さんも一時居られました。)と一緒に西川口でお店をやってますね。
ドラムの渡辺さんは、ルビーズの後、キャッシュボックスと言うバンドに行きました。その後の事は分からないのですが…
立川さんは、ご存知の様に音楽評論家ですね。考え方の違いから最近は会っていないんですが…彼とは本当に仲が良かったんだけどなあ。
I:ルビーズと仲の良かったバンドはありますか。
Y:東芝のシェリーズ、ビクターのサニー・ファイブ、エドワーズですね。
渋谷に、「バン」って言うゴーゴーホールが有ったんですよ。そこによく、そう言うB級GSが来てましたね。そこは、お客さんの何人かがモニターになっていて、だめだと言うとそのバンドは出られなくなっちゃうんですよ。
I:ゴングショーの様ですね。(笑)
Y:そうですね、結構厳しかったみたいですよ。一度入ってしまえば良いんですけどね。
H:横浜の「ピーナッツ」(491がレギュラーで出ていました。矢沢永吉氏もここからデビューしています。)の様に、登竜門のような所だったんですね。
Y:そうですね。「ピーナッツ」は入門コースのような所だったと思います。公共の場所の練習場所と認識してましたね。失礼でしたが。(笑)
H:ルビーズは横須賀で出来たと認識しているのですが、当時の横浜、横須賀辺りには、どのような思い出がありますか。
Y:そうですね、横須賀に「ビー」(名前は定かではないのですが)と言う怪しいお店が有りまして(笑)、そこのオーナーさんがルビーズのスポンサーについていたんですよ。それでそこのホールで良く練習させてもらいました。地方巡業の時などもそこで泊まらせてもらって朝早く出て行くと言うような事をしていましたね。
あと、少し場所が離れるんですが、川崎に「フロリダ」と言うダンスホールが有りまして、そこにサベージの連中とか、植田芳暁さんとか加瀬邦彦さんが良くたむろしてましたね。
H:地方巡業はどの辺りに行かれたのでしょうか。
Y:大体全国回りましたよ。地方でその土地のラジオ局やテレビ局の取材や、そこに有るジャズ喫茶に出演しました。
H:私の地元の仙台に「グランド・パレス」と言うジャズ喫茶が有るんですが、491がそこでデビューしたと言う話なんですけど…
Y:ああ、そこ出た覚え有りますよ。(笑)
I:491とは競演されたのですか。
Y:ええ、しましたね。その頃はジョー山中さん(当時は城あきらと言っていました。)も今と違ってソウルっぽい歌は歌っていませんでしたね。
H:地方巡業の機材は、どうされていたのでしょうか。ギターアンプとかボーカルアプとか。
Y:ボーカルアンプとギターアンプはバンとかに乗せて自分たちで持っていきましたね。対バンとか有る場合にはステージに2バンド分の機材が載ったものです。
H:さすがにドラムは載せられないですよね。
Y:そうですね、スネアとかシンバルを換えるくらいで後は共用していました。
H:ステージではモニターとかは当然無いんですよね。
Y:そうです。舞台の袖でマネージャーがヘッドホンでモニターしてチェックしていました。
I:それでは、武道館公演の事についてうかがいます。
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