T:今じゃ誰も信じないだろうけど、当時は僕を単独で売りこもうって言う話も有ったくらい写真の映りもよかったんですよ。(笑)
TVも映りがよかったって、あれだけ反対していた両親が日劇のステージに親戚一同連れて来ましたよ。「あれがうちの息子だ。」って(笑)
H:それは何年くらいの事なんですか。
T:僕が23・4位の頃ですかね。昭和46・7年位かな。
H:それは、レコードを出すと言う前提で結成されたわけですか。
T:そうですね、とにかく石井音楽事務所と言ってシャンソンの石井好子さんの事務所が、当時クールファイブが売れていたのに対抗して石井さんが「うちもシャンソンやカンツォーネだけでなくムードコーラスを売り出そう。」と言う事で、ずいぶんお金かけたらしいです。
H:メンバーはどのようにして集めたのでしょうか。
T:事務所のカンツォーネとかシャンソンの若手のルックスの良いのを集めたみたいです。嫌がる本人を強引に引っ張って。(笑)
今ではカンツォーネ界の重鎮となっている方もいますね。
H:歌だけで演奏はしなかったんですか。
T:いや、演奏もしました。
それにしても嫌でしょうがなかったですね。今まで、日野さんの所でthis
is musicと言ってジャズやってたのが、いきなりどーらん塗って「わわわわ」の世界で…
キングレコードから話が来たときも急に来て、いきなり「あなたが何100人の中から選ばれました。」とか言って悪徳商法のように。(笑)
なんか裏でオーディションのような物をやっていたみたいでしたね。
びっくりしました。
H:レコードは何枚出したのですか。
T:シングル何枚かとLPも出しましたね。
TVのレギュラーも3本くらい有ったかな。親からも連絡ありましたよ。
大きいステージも結構やりましたね。大阪フェスティバルホールとか、中野サンプラザとか…
H:それは歌謡ショーとかですか。
T:そうです。当時キングが力入れていたのが、布施明さんピンキーとキラーズですかね。同じレコード会社だった寺内さんとも一緒にやりましたね。キーボードが運搬の都合で遅れたと言う事でうちのバンドのを貸した事が有りましたね。
H:バニーズの頃ですか。
T:バニーズの後ではないかと思います。当時の寺内さんの力は絶対的な物があって凄かったですね。
キング歌謡フェスティバルのステージだったかな、中村晃子さんがステージで「虹色の湖」を歌っていた時、寺内さんが客席の一番前で百面相をして何とか笑わせようとしてるんですよ。でもそれを誰も止められないんです。プロデューサーも何も出来ないんです。中村さんは平然と歌っていましたけどね。
でも、当時、「俺はこんな事をやっていてはだめだ。」と思っていましたね。仲間がみんな勉強しているときにワワワなんてやってたらどんどん遅れて行ってしまうと言う焦りがありましたね。
だけど、事務所サイドとしては日本人がジャズやったって売れっこ無いんだから、こう言う事を続けて盛り上がって行こうと言うねらいがあったんですね。最近になって分かるようになりましたけどね。
H:周りで、パーッと売れて行く人たちを見てどのように思われましたか。
T:うーん、やっぱりたいしたもんだなと思いましたね。まあ、実力もさることながらそう言うめぐり合わせとか、運とかあるんでしょうけど、そう言う人たちは当時から光ってましたね。つのだ☆ひろさんとかね。
彼とは、ジョージ大塚さんの所のドラム教室で一緒になった事が有るんですが、図々しくてなんでも恐れない人でしたね。どこへでも乱入して俺に叩かせてくれって言ってました。
そう言う反面凄く努力家で、代々木公園にメトロノームとカセットとスティックを持っていっては叩いていました。
H:努力の裏打ちがあるんですね。
T:そうですね、それと「俺は絶対一流になってやるんだ」と言う強い気持ちがあるんですね。それで、目立つ格好をして自分をアピールして「俺がつのだ☆ひろだ!」ってのを全面的に出していましたね。
やっぱりプロになるには人を押しのけてでも前に出る、後ろ指刺されながらも自分を主張するくらいの意気込みがないとだめですね。
これも、とこちゃんが言っていたんだけど、「25までにスウィングジャーナルに載らないとだめだよ。そこからだったらサラリーマンとしてもやり直せるから。」まさに、そのとおりですね。
H:当時のGSでも結構荒っぽい人達もあると聞きましたが。
T:シャープホークスとか凄かったですね。
池袋の危ない人たちと結構有ったみたいですよ。力也さんとサミーさん(ボーカルの鈴木さん)が凄かったなあ。
バンド内でも、美根さんとも結構衝突してましたね。Liveでお客さんが美根さんにインストの曲をリクエストするんですが、美根さんは、まだ指がスタンバイできてないから待ってくれって言うんだけど、サミーさんがそんなのはだめだとか言ってそのうちに美根さんと喧嘩になって。(笑)
H:テリーさんが当時注目していたGSは有りますか。
T:僕はドラマーなんで、どうしてもドラム中心に見てしまうんですけど、そう言う意味でジャッキーさんのブルコメ、あとは、ジ・エドワーズ、アウト・キャストでしょうか。
H:「のら」についてお聞きしますが、これが、テリーさんが武道館で出たバンドなんですよね。
T:そうですね、フォークロックのバンドなんですが、僕の知り合いから、突然電話がかかってきて「今日、空いてますか?」って言うんですよ。
それで、「空いてるけど」って言うと、「武道館でLiveがありますから出てください。」って。(笑)
と言うのはグラムロックのT・レックスが来日していて、その初日に前座で出る予定になっていたんですが、「のら」の他に数バンド出てたと思います。司会が糸井五郎さんでした。それで、「のら」のドラマーが倒れたので急遽代わりをやって欲しいとの事でした。色々、探し回った挙句僕の所に来たようです。
連絡が来たのも本番の数時間前で(笑)、もうサウンドチェックが始まってた頃なんですよね。それも複雑なリズムで、ずいぶん苦労しました。
ですから、お客さんを見てた方が楽しかったですね。ジュリーとか来てたなあ。
H:この頃はもう随分とGSも下火になってきた頃ですよね。
T:営業とかに回ってたバンドが多かったですね。
ホテルのフリーの仕事なんかしてると、見た顔がぞろぞろと…(笑)
京王プラザで仕事したときは、ブルーエースのベースさんとやりましたね。
本当に、もう残された道は営業で細々やって行くか、店を始めるか、枝っぷりのいい木を見つけるか(笑)
自分の歩んできた栄光は忘れられないんだけど、どこで線を引くかって事が必要ですね。
H:それでテリーさんはそれからどう言う方向に進もうと思われたのでしょうか。
T:僕はジャズが好きだったから、スタジオミュージシャンになりたかったですね。
音楽の職人を目指したかったです。
でも、当時のスタジオミュージシャン色々な人がいましたね。時給制だったんでわざと間違えて伸ばしたりしてた人もいましたね。まあ、そう言う人は自然と仕事こなくなってましたけどね。(笑)
とにかく、僕はうまくなりたかったですね。
H:どうも長時間ありがとうございました。
それでは、最後にテリーさんが一番影響を受けたアーティストは。
T:やはり、日野元彦さんですね。それから、ジョージ大塚さん。トニー・ウィリアムス。
H:本日は、大変貴重なお話しをどうもありがとうございました。
テリーさんの今後のご活躍を期待しています。
T:ありがとうございます。
テリー平本さんの華麗なる音楽人生。、皆さん、如何でしたか。
これからもいっそうのご活躍を期待しています。
尚、私事ですが、私の夢はテリーさんとサックスで競演する事なんです。
ベースでは一度お手合わせした事有るんですが、サックスでテリーさんとジャズがやりたいんです。
今回のインタビューに際して、ご自宅を提供して頂き、なおかつカメラマンまでやって頂いた小野アキラさんに感謝して、第1回の突撃レポートを終わりたいと思います。
次回も、是非ご期待下さい。
資料写真提供:テリー平本氏 取材写真提供:小野アキラ氏