第8回は元491の佐藤正博さんです。

 

 


今回は、元491の佐藤正博さんを所沢の某ファミレスにて取材させて頂きました。
当日は、元ルビーズの山川さんも応援に駆けつけて来て下さりました。

例によって、佐藤さん(S)、秦(H)、服部(I)で書かせて貰います。

H I:こんにちは、今日はよろしくお願いします。

S:よろしくお願いします。

I:それでは、いつも皆さんに始めにお伺いしているのですが、佐藤さんが音楽に目覚めたというのはいつ頃なのでしょうか。

S:そうですね、子供の頃から音楽はあまり好きではなかったんですよ。音楽の授業も嫌いで。(笑)
自分の音楽の目覚めというのは、中学2年の時に聞いたビートルズですね。

それで、その辺りから友達と二人でギターを弾いては、ビートルズナンバーを歌っていました。

H:元は、ギターだったんですね。

S:いや、二人しかいなかったんで。(笑)
それで、その彼がギターが上手くて教えて貰いました。二人で、部屋で色々ビートルズを聞きながら合わせて歌っていたんです。
そのうちに、ポールのベースがかっこよくて、ベースが良いなと思うようになりました。そこからは、ベース一本ですね。別にギターを弾こうとは思わなかったです。

I:それでは、最初に買ったエレキと言うのはベースだったのでしょうか。

S:いや、テスコのギターでした。ベースを買ったのは、もっと後でした。グヤトーンのベースだったと思います。

I:最初に買われたレコードというのもやはり。

S:そうです。ビートルズのものです。「抱きしめたい」だったかな。ただ、もう一人の相棒が良く買っていたので僕はあまり買わなかったですね。それを色々聞かせて貰いました。

I:その後バンドという形にはなったのでしょうか。

S:その後は、一度ベンチャーズバンドになりました。当時は、やっぱり流行っていましたので。ドラムの子がビートルズよりベンチャーズの方をやりたがったので、必然的にそうなったのですよ。それで、文化祭とかも出てましたね。

ちゃんとしたバンドになったのはその後(そのバンドから)別れてからで、新宿の中川三郎ダンススタジオ(注1)でやるようになってからです。その時はストーンズのナンバーになっていました。

H:それは高校の時ですか。

S:そうです。在学中ですね。中川スタジオにモップスが出ていたのですが、モップスは鈴木兄弟でやってましたが、ドラムが弟で、その下の弟が僕と同級生だったんですよ。その流れで、Jrモップスとして活動してたんです。前座とかやっていました。

H:と言うことは、学校が終わってから行かれてたんですね。

S:そうですね、7時くらいからのステージですから。

I:そのメンバーはどういう構成だったのでしょう。

S:ギターが浅野孝己さん、(後のゴダイゴ在籍)、モップスの弟と、僕と、ドラムが誰だったか忘れてしまったのですが、そのメンバーでやってました。後、当時は、Jrテンプターズもあって、お互いに色々メンバーの入れ替わりがあったりしてました。Jrテンプターズのボーカルは、ミック・ジャガーに似てたので、ミックって呼ばれてて、最近でも音楽やってるって話聞きましたね。

それで、モップスがプロになって、いなくなってからは、僕らがメインで中川スタジオでやってました。

H:当時の思い出話があれば聞かせて下さい。

S:浅野くんは、僕より年下で、15・6だったと思うのですが、ン10万もするようなグレッチのギターを弾いてましたね。家がタクシー会社かなにかで金持ちだったんでしょう。

あと、モップスというとサイケなチャイナ風の衣装という印象があると思うのですが、(シングル版「ベラよ急げ」のジャケット参照。)あれは僕が福生かどこかで買ってきたものをステージ出来ていたら、鈴木ヒロミツさんがまねたんですよ。

H I:そうなんですか。

H:演奏するナンバーはやっぱりダンス系のものだったんですか。

S:いや、そう言うことはなくて、ストーンズとかをやっていました。当時は、他のバンドもみんなそうだったと思います。ストーンズのナンバーでみんな踊ってましたね。
当時は、ビートルズの影響で、ベースはバイオリンベースが流行ってたんですが、Jrモップスはストーンズのナンバーをやってたので、わざとグレコの変な形のベースを弾いていました。

I:Jrモップスとしては、どのくらいの活動があったんでしょうか。

S:どのくらいやってたかなあ・・・1年半くらいかな。

H:ちなみにギャラとかは、どうでしたか。

S:そんなに貰ってなかったですね。本当に電車賃とかそう言う程度で。まあ、でも僕は演奏してるだけでも楽しかったですから。本来だったら、そこは高校生入場禁止ですから(笑)

I:その後はどうされたのでしょうか。

S:それから、誰から電話かかってきたか覚えてないのですが、ポリドールの方から誘われて、ルビーズに入りました。

I:そのルビーズは、菊谷さん、山川さんが抜けた後のルビーズですね。

S:そうです。誰がいたか覚えてないのですが、マネージャーだけは覚えています。

I:確か、ルビーズが解散してから、マネージャーが別の人を集めて新しく作ったと聞いていますが、その方ですね。
そのルビーズでは、色々ジャズ喫茶とかも出られたのですか。

S:そうですね、上野ACBとか行ってました。 後、横須賀の将校クラブ(EMクラブ)でもやりました。
あそこは楽しかったですね。黒人とか、のりが良いんですよ。外人の前でやるのはどきどきしたんですが、のってくれるんで、こっちも楽しくなります。

I:演奏は、昔のルビーズのナンバーもやったんですか。

S:やりましたね。あと、当時は、だんだんジャズ喫茶も減っていって、キャバレーのような大箱でやることが多くなり、「柳ヶ瀬ブルース」のような演歌もやらされました。

I:その後はどうされたのですか。

S:それから、そのルビーズが自然消滅のような形で、無くなりまして、その後、どういういきさつで、491の方に行ったか良く覚えてないんですよ。

H:ここに資料がありまして、(黒沢氏のGS図鑑を出して)この「淋しいジェニー」のレコーディングの後に入られたのですか。

 

 

S:いや、このレコードのジャケットにキーボードの真木(よしゆき)さんが写ってるんだけど、僕は彼と一緒に入ったのだけど、このレコードは知らないなあ。なんで僕が写ってないんだろうね。

H:これが69年の7月なんですが、この後ベースの高木さんが抜けて、佐藤さんが入られたんではないのでしょうか。

S:でも真木さんとは一緒に入ったんだよね。おかしいね。

H:新宿ACBに出られましたでしょうか。

S:いや、出てないと思うけど。

H:この新宿ACBのスケジュール表によりますと、メンバーの名前の中に、藤山さんという名前があるのですが・・・

ここで山川さん登場。

 

 

Y:ああ、その人知ってるよ。「フール・ザ・フォーカス」というバンドに行った方で山尾ツインズと言ってロカビリーの頃から歌っていた双子の兄弟の人ですね。

I:ゲストボーカルで入ったんですね。

H:佐藤さんが入った頃の491は、ボーカルが沢さん、リードギターが滝さん、ですね。音楽的には滝さんが仕切っていたのですか。

S:そうですね、滝さんは怖い人でした。

H:滝さんは元々寺内さんの弟子のような方だと思いましたが、それで、ドラムが加藤さん、キーボードが真木さん、サイドギターが田辺さんですね。活動としては、70年に解散したと言うことになってるんですが、どういう形で解散と言うことになったのでしょうか。

S:うーん、一寸覚えてないですね。

H:佐藤さんがいたのは大体1年位なんですか。

S:そうだと思います。

H:491がヤング720に69年の12月に出ているんですが、これに出られましたか。

S:いや、それには出てないですね。まだ、その頃は491で無かったと思いましたが。

H:8月にも出てまして、多分7月に出たレコードのキャンペーンも兼ねての出演だと思うのですが。

S:49Aになってますね。

H:この最終レコードから、レコード会社がビクターに移籍して、そこから491から49Aに変えたのですね。ちなみに、ヤング720のスケジュール表も49Aになってますが。

S:いや、それも知らないですね。

この後、この辺りの話は、実は、僕たちの勘違いだと言うことが分かるのですが、それは次で書きます。

 

注1:中川三郎ダンススタジオは、後のディスコのはしりのようなもの。都内に何軒か支店がありました。

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