第5回は、元「ルビーズ」、「平田隆夫とセルスターズ」の

菊谷英紀さんです。

 

 菊谷英紀さんは、「ルビーズ」のリーダーとして、又、ルビーズをやめられてからは、「平田隆夫とセルスターズ」のメンバーとして、活躍されて来ました。
今回は、菊谷さんの多方面に渡るご活躍を、菊谷さんのお店、「ハチのムサシ」にて、秦と服部が取材してきました。

今回も大変たくさんお話して頂いたので、回を分けてお送りします。

 


例によって、菊谷さん(K)、秦(H)、服部(I )とさせて頂きます。

H:I:今日は、よろしくお願いします。


H:実は、お話を伺うに当たりまして、大きく分けて3つの項目に渡ってお願いしたいと思っています。

K:はい。

H:最初は、菊谷さんの少年時代からプロになるまでと、それからルビーズの時代、セルスターズの時代と言う様にお聞きして行きたいと思います。

K:はい、どうぞ。

I:それでは早速お願いします。

まず、菊谷さんが最初に音楽に目覚めたと言うのは、何時頃なんでしょうか。

K:そうですね、僕は生まれが昭和17年なんですけど、その頃、ラジオから流れ出してきた洋楽と言うのが、エルビス・プレスリーとかビル・ヘイリーとヒズ・コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」でして、丁度、その当時日本でもロカビリーのブームが起きてまして、それとあいまって凄く衝撃を受けました。

I:それは、何歳くらいの頃でしょうか。

K:中学生の頃ですね。それまでラジオから流れていたのは、日本の歌謡曲ばかりで、僕もそう行った音楽を口ずさんだりしてたのですが、こう言った曲を聞いてからは世界が変わリました。それと、日劇のウエスタン・カーニバルを、近所の家のTVで見たのですが、それを見て、「もう、これしかない」と思いましたね。(笑)

I:一番最初に買われたレコードと言うのは何でしょうか。

K:今でも良く覚えていますが、SP盤の「ハートブレイク・ホテル」ですね。エルビスの。

H:I:はあー(ため息)

K:それで、先にレコードだけ買って、プレーヤーは後から買ったんですよ。(笑)

I:どうしても欲しかったと言う事ですね。

K:それとか、ジーン・ビンセント(「ビバップ・ア・ルーラ」などで有名ですが、)が、日本公演を、日劇のウエスタンカーニバルでやったんですよ。それを、生で見たときに、又いっそう思いが強くなりました。
背景としては、アメリカのR&Rが、日本にやって来た時が僕の音楽の起点ではないかと思っています。

I:菊谷さんはお生まれはどちらなんでしょうか。

K:僕は、東京の日本橋です。

I:それで、日劇を生でご覧になる事が出来たんですね。

それから、最初に買った楽器と言うのはなんでしょうか。

K:普通のガットギターですね。
古い話ですが、他にもいらっしゃるとは思うのですが、日本で一番最初に左でギターの弾いたのが僕だと仰る方がいるのですが、当時楽器の知識も無かったのですが、ロカビリーをやるにはギターが不可欠と思ったんです。僕はレフティなんでギターを弾く時も左でなきゃだめなんだと思いこんでいました。それで、池袋だったかな、小さな楽器店でガットギターと教則本を買って自分で弦を逆に張り替えて、自己流で弾き始めました。

H:それは、中学生の頃ですか。

K:いや、もう16・7の頃でしたね。

それで、早くバンドの活動をしたいけど、どうやってやったら良いか分からなかったのですが、たまたま友人から、「キャバレーでバンドをやってる人がいる。」と言うのを聞いて、是非紹介してもらう様に言ったら、「1度遊びに来い。」と言う返事が来まして、新橋にあったキャバレーなんですが、そこに遊びに行きました。
それは、ハワイアンのバンドだったんですが、とにかく生で音楽をやってるのを見て、「なんでもいいやとにかくやってれば勉強も出来るし」と思って、ボーヤ(バンドボーイ)兼と言う事でそのバンドに入りました。

H:その頃はもうすでに何曲かレパートリーが有ったのですか。

K:いやいや、まだ、ぽろぽろと弾ける程度でした。それで、目の前でプロの演奏を見たときに「プロはやはり凄いな。」と感じましたね。

I:その方からはギターを教えてもらったのでしょうか。

K:いや、当時は、そう言うのは無くて、習いたければ、自分で見て覚えろと言うことで僕も、覗き見ては覚えましたね。
それで、お店の早い時間でお客さんの来てない時間に、1・2曲歌わせて貰っていました。

I:もう、すでに歌われてたのですね。

K:そうです、いきなり、ステージに上がらされて「お前何が歌えるんだ。」と言われて。バンドの方は、みんなある程度の曲は頭に入ってるので、そういう事が出来たのでしょうね。
歌は、実は昔から良く歌っていたと言うか、ホームルームの時間なんかで、皆から歌えって言われて歌っていまして、平凡とか明星の歌本をかなり覚えていましたね。

H:かなりの歌自慢でいらっしゃったんですね。

K:そうですねえ、TVの歌自慢と言うか、新人発掘の番組にも出た事有りましたね。あと、ジャズ喫茶の新人歌手コンテストにも出た事有りました。
新宿のACBでやったんですが、朝から夜遅くまでかかっちゃって、500人位エントリーが有ったんですよ。それで最終審査まで残ったのを覚えていますね。

I:それは、ボーヤをやってらした頃ですか。

K:そうですね、僕も自分では本当はロックがやりたいと言う気持が有ったので。

その時にいくつかのバンドから引き合いがあったのですが、場所が遠かったり、やりたい音楽と違ってたりしたので、即そう言ったバンドには入りませんでしたけど。
ただ、僕も音楽の専門知識も何も無かったのですが、そう言ったACBのようなステージでやりたいなと言う気持が強く胸の中にありまして、それが後に職業として実現する事ができたんですね。

 

 

H:その当時、菊谷さんのアイドル的なバンドと言うのは何か有ったのでしょうか。

K:勿論日本では、平尾昌章さん、山下敬二郎さん、ミッキー・カーチスさんと言うロカビリーの方たちで、ジャズ喫茶も結構通いました。憧れながらも、いつかこう言うステージで歌ってみたいなと思ってました。

I:ギターは、ずっとエレキではなくてガットギターだったのですか。

K:いやいや、そういう事は無くて、そのバンドの坊やをやってた時に、スリーファンキーズのバックバンドをやっていたワゴンスターズのギターの方がギターをお売りになると聞いてギブソンの50年代のモデルだったんですが、親父が金を出してくれて、貧困家庭だったんですけどね(笑)、買ってもらいました。当然、右のモデルだったのですが、ギターのカットが違って弾きにくいので(注:エレキギターを思い起こしてください。)乱暴な事に近所の大工さんに頼んで反対側もカットしてもらったんですよ。それを随分使っていました。良い音してました。
確か、後年ルビーズのレコードジャケットにも写ってると思いましたが。「さよならナタリー」だったかな…

H:なるほど、それでこのレコードジャケットのギターのつまみが上に有るので、以前から逆に持ってるんだと思っていたのですが、やはりそうだったんですね。

K:そのギターなんですが、後にセルスターズがTVに出るようになった時に、お名前、一寸忘れましたが、当時有名なスタジオミュージシャンの方が、「ルビーズのジャケットで見たのですが、どうしてもあのギターが弾いて見たいのですが、貸して頂けないでしょうか。」と仰るんですよ。それで、僕はその方にあげちゃったんですよ(笑)

H:それで、ルビーズの前にはバンドをやっていらっしゃったのでしょうか。

K:そうですね、その頃ベンチャーズが随分流行って来ましたので、ベンチャーズのバンドをやったりもしていました。昼間は働いてましたので、夜は営業のバンドをやり、日曜日とかにやったりしてました。

H:夜のバンドではもう、メンバーになっていたのですね。

K:そうです。

H:そのバンドの名前はなんと言ったのでしょうか。

K:えーと、一寸忘れてしまいましたが、いくつものバンドを渡り歩いたのは覚えてます。
それで、ソロシンガーとして歌い始めたのは、川崎の「フロリダ」(以前のレポート参照)からでしたね。バックバンドは後のブラックストーンズ(東芝)、黛ジュンちゃんのバックをやってたかな、とか、色々有りました。

H:それと平行にベンチャーズもやってたわけですね。

K:そうです。アマチュアの子を集めて僕がリーダーでやってましたね。随分の大人数でやってました。歌の歌える子もいたので、ロカビリーの曲もやってましたね。発表の機会は無かったのですが、ガレージとかで楽しくやっていました。

H:そう言うバンドを経てルビーズに行くわけですね。

K:そうですね。

BACK NEXT