H:レコーディングの事をお聞きしたいのですが、フィリップスのディレクターの本城さんが、「サベージとかスパイダースとかは、すでに自分達の音が有るので非常にやりやすかった。」と言う話を聞いたことが有るのですが、渡辺さんとしては当時はどう言った事を重視してやられていたのでしょう。
その他、まつわるお話を聞かせてください。
W:ベンチャーズサウンドとは、違った物をと言う意識でやっていましたね。後半はシャドウズの物が多かったんですが。
ここで使ってる青いジャガーですが、これは、話が戻りますが、スペースメンの時にずっと借りてこれを弾いてたんですよ。
それでこのグループ(サベージ)に行く時に(フロリダの)オーナーがプレゼントしてくれた物なんです。
あと、もう一台サンバーストのが有るんですが、それはサベージが上野毛(東京都世田谷区)のそば屋の2階で練習していたのですが、そこのそば屋のおやじさんが、サベージを一生懸命応援してくれていて、その頃(そのお店は)裕福で、それでそのおやじさんに買ってもらったんですよ。
寺尾さんの持ってるジャズベースも彼に買ってもらったんです。
H:ははあー、そうなんですか。
寺尾聡さんは、宇野重吉さんの息子だから、金持ちだから親に買って貰ったのかと思っていたら違っていたんですね。
W:その後、(彼が)お金を払ったかどうかは分かりませんが、まあそう言うわけで、2台のジャガーを使い回ししていました。
H:アンプはどうされていましたか。
W:東京Vの終わりの頃なんですが、おふくろに「実はアンプがなくて」と言う話をしたところ、うちはお金持ちで無かったのですが、近くの銀行でお金を借りてきて「バンドマスター」と言うセパレートの45Wのアンプを買ってくれたんです。
それをずっと使っていました。
調子が悪くなると自分で修理していました。まだ、実はうちに有るんですがね。
I・H:はああ。(驚)
W:思い入れが有るので処分するにも出来ないんです。
当時「サベージ」と言うステッカーを貼っていまして、まだそのままなんですよ。
子供達が何時か使うかなと思っていたんですが…まあ、使わなかったですね。今はもっと良いのが有りますからね。あれは僕の思い出の品と言う事です。
H:レコーディングも全部それですか。
W:勿論そうです。いい音してましたよ。
I:レコーディングは一発録りだったんですか。
W:そうですね、アンプの前にマイクを置いて。せえーので。
で、演奏だけ録っておいて、後から歌を乗せるんです。当時は皆そうだったんじゃないですかね。
H:ギャラの事をお聞きして宜しいでしょうか、ここに当時の資料が有るのですが、これによると1日2回公演で(サベージが)40万とあるのですが…
W:僕たちがどのくらいで売られていたかは分からないですね。それは営業の人たちの事でしたから。僕等は、何回公演やったから給料がいくらと言う計算をしていました。
まあ、それはバンドとしてのギャラですが、個人の給料としてもそのくらいは有りましたね。
I:はあ−(溜息。/因みに70年当時で平均月給が75000円程度(初任給では有りません。)、ビール大瓶132円、封書が15円、映画料金が550円でした。)
W:まあ、今でもそうなんですが、ギャラは買いたい人が居て売りたい人が居てその交渉でどうにでもなると言う物ですからね。
I:それでは、サベージ後の事をお聞きしたいのですが、まず、サベージの解散についてお伺いしますが。その理由のような物はあるのでしょうか。
W:音楽的に、だんだんと与えられたものをやりたくないと言う気持が強くなってきたんです。
「渚に消えた恋」を貰った時も、全員でやりたくないと言ったものです。あと、「夜空の夢」も佐々木勉さんの曲ですが、元々弾き語りの方なんで、そう言った感じのデモテープだったんですが、それでは、つまらないと思い、ビートを乗せた曲に僕が編曲しました。麻布のアオイスタジオで録音したんですが、サイドギターの「ジャンジャカジャンジャカ」が中々うまく行かなかったんで、僕が多重録音したんですけどね。
I:そう言った欲求不満のような物が溜まった末と言う事ですか。
W:まあ、直接の原因は、もう時効になってるので言いますがメンバーの不和と言うのも有りましたね。
あと、ヒット曲が無くなってきて仕事場がだんだんマイナーな所になってきて、当時ジャズ喫茶がディスコに変わる狭間の頃だったというのも有って、そう言うナンバーを出来ない僕たちがだんだん行き詰まりを感じてきたのが、丁度契約が切れるときだったんです。
それと平行して僕はアメリカに行ってもう1度勉強したいと言う気持が有ったんですね、それで、じゃあもうやめようと言う事になったんです。
H:渡辺さんとしてはさっぱりとやめられたんですか。
W:僕はそうですね。後、ベースの原さんがサベージを続けていたのですが、それはもう以前のサベージではないバンドでしたね。
I:そうしてアメリカに渡られたのですね。
W:そうです。ロサンゼルスにカントリーのドットレコードと契約した、エディー深野さんというカントリーシンガーがいまして、彼を頼って石黒さん(前編で、ご紹介しています。)と2人で行って、その後、彼について色々な所を回りながら一年位いました。
当時は女性を口説けるくらいの英語はしゃべれるようになりましたよ。(笑)
そうして、アメリカから帰ってきてから「何をやろうかな」と思っていたところ、僕が帰国した事を聞いた人達から、たくさん電話来まして、そこの中で米軍キャンプのショーをやるグループに入らないかという話が有りました。
僕は今までの経験が生かせそうだなと思い、面白そうだから引きうけることにしたんです。それで、フルバンドの指揮をやったりもしました。
それをしばらくやっていましたね。
I:それは70年代の頃ですか。
W:そうですね。69年に撮った写真で、カウボーイ姿で馬に乗ってる写真が有るんですよ。その後ですから。
I:米軍キャンプの仕事は何時までやってらっしゃったんですか。
W:1・2年くらいかなあ…その後にバンドに誘われてやった記憶がありますけど、(一貫して)音楽から一切外れたと言う事は無いですね。今の仕事も含めましてね。
I:それではその、「38」についてお聞きしたいのですが、まず、立ち上げについてお願いします。
W:「38」は、85年に立ち上げですので、今年で19年目なんですね、よくやってるなと思います。(笑)
当時は今のビルの向かいの2階にありました。そのときにサベージのメンバーが来てくれて再結成Liveを最初にやりました。
H:それがサベージが解散してから始めての集まりだったでしょうか。
W:その前に、浜松町のメルパルクホールで、確か加瀬さんの仕切りだったと思うのですが、最初のGSカーニバルが有りまして、その時に僕も含めてやりました。
その後、こう行った催しが定期的にやるようになって、GSブームの再燃に繋がりましたね。
I:「38」の命名は何処から来たのでしょうか。
W:何だったかなあ…忘れてしまいました。大した事ではなかったんです。語呂が良いとか、年が38だったとか…(笑)
I:サベージの復活Liveは今後もあるのでしょうか。
W:それは、今もドラムとベースをサポートメンバーにして残ったメンバーは、やってる様ですね。
SPC(シャドウズ・プレーヤー・クラブ)と言うのが有るんですが、そのLiveを「38」で、年1回やってるんですが、それにも1・2年前に出ましたね。
僕はそのメンバーとは、やらなくて単独でうちの専属バンドでやりました。
その頃は毎週末(店でも)ギターを弾いてましたね。月一度「GSナイト」と言う日もセッティングしてやっていました。当時はまだ気力も充実していましてね、今はもうだめですが…
I:現在は、「38」のステージには出ていらっしゃらないのですか。
W:今は出てないです。それでその時に収録した物をCDにしてあるんですよ。
今日持ってきたので差し上げますので持って帰って聞いて下さい。
I H:えーっ(歓声)良いんですか。
W:これは非売品で一枚しかないんですが、何でこれを作ったかというとギターを弾かなくなってからお客さんから「ナベちゃんのギター聞きたいな。」と言う要望がありまして作って、あげてたんです。
I H:ありがとうございます。お宝にします。
H:ところで、今回は山川さんのご紹介で、渡辺さんにお会いできたのですが、山川さんとは何処でお知り合いになられたのでしょうか。
W:山ちゃんとはね、なんだったっけなあ…うーん一寸よく覚えてないんですが、うちのかみさんと山ちゃんのかみさんと付き合いがあって一時家族付き合いしてたんですが、そういったきっかけだったかな。
I:GSをやめてから、ルビーズの立川さんの様に評論家になられたりとか別の分野に行かれた方もいらっしゃるのですが、渡辺さんはそう言った事はお考えにはならなかったのでしょうか。
W:まったく無かったですね。僕はギタープレーヤーとしてやって行きたかったからそう言う(他の)事には熱心に動こうとはしませんでしたね。
I:それでは最後の質問にさせて頂こうと思うのですが、渡辺さんは当時のGSムーブメントについてはどのようにお感じになっていましたか。
W:僕はただ与えられた仕事をやっていたと言う感じですかね、GSと言う言葉は、マスコミが作ったものですよね。それまでは、カレッジポップスとかフォークとか言われてた物をGSとして売り出したわけなんですが、その事に関しては、別に何も抵抗は無かったですね。周りが騒いでると言うだけで。
H:渡辺さんにとって、東京V、サベージ時代を一言で言うとどうですか。
W:まあ、若かったから、若さをぶつけて燃える物が有ったなと思います。それが自分の中にずっと有りますね。ですから、今でも、音楽やってて良かったなと実感しています。
H:その言葉を聞いて胸が一杯です。
I:今日はどうもお忙しい所を本当にありがとうございました。