第13回は成田賢さんの後編です。

 

原宿クロコダイルにて


 今回も、成田賢さん(NK)、中村俊夫さん(N)、秦(H)、服部(I)で始めさせて頂きます。

H:「君なき世界」はムッシュ(かまやつ)さんですよね。

N:ムッシュさんはコーラスでも参加されてませんでしたでしょうか。そんな声が入ってるような気がするんですが。

NH:いやあ、覚えてないですね。しかし、当時からあんな曲を作ってるって事はムッシュは本当に凄いですね。

「Why Baby Why」なんかも、(ファンの人が)喜んでくれるなら歌ってみようと思うんですが、もう今は声が出ないですね、「アイラブユー」の「ユー」の辺りが・・・

H:「初恋の丘」と比べてはどうでしたか。

NK:いやあ、全然こっちの方が良いですよ、水を得た魚みたいで。あと「Why Baby Why」もライブ受けのする曲ですね。

確かイタリアのアマチュアのバンドがやってるんですよ、この曲を。インチキ臭い日本語なんですがね。

I:今もやってるんですか。

N:いや、80年代ですね。

NK:今でもユーチューブで見られますよ。

H:ライブハウスでは、受けはどうでしたか。

NK:やっぱ、こっちの方が受けが良かったですね。「初恋の丘」とかやってる頃は、「なんだ・・」って言う声が多かったですから。

この頃からは、ファンの人もマニアックな人が多かったですね、男の人も多かったですが。

H:元々アウトローズの頃からのファンが戻ってきたんですね。3曲目の「君好きだよ」についてはどうですか。

NK:「君好きだよ」はテンプテーションズみたいにしようと思ったんですよ。イントロから。当時ジェームス・ブラウンとかテンプテーションズの歌を聴いてて、こういうノリにしようと言うことになり、確か池袋のスタジオだったと思いましたが、そこでアレンジしました。

H:練習はスタジオでやっていたんですか。

NK:いや、ホールが多かったですね。信濃町や新宿の柏ホールとか、防音装置の付いたスタジオではなかったですね。新曲が出ると言うことになるとそうしたところで練習しました。

H:演奏は全部ビーバーズがやったんですか。

NK:当時はスタジオミュージシャンがやるのが当たり前になっていたんですが、うちは全部やっていました。

H:その後に「ビバビーバーズ」が出るのですが、それは全部新録音だったんですか。

NH:シングル盤はそのまま使いました。他の曲は殆どキングレコードの半沢さんというディレクターの方の選曲でした。

H:それをビーバーズなりに編曲したんですね。

NK:そうです。

H:録音の時間はどのくらいだったのでしょうか。

NK:意外と短かったような気がしましたね。

H:当然営業の合間にですよね。

NK:そうですね。

H:ビーバーズというとレコードの演奏をそのままライブでやるというのが売りになってたと思いますが、つまり、ライブハウスでやっていた演奏をレコーディングしたと言うことですね。

NK:そうです。当時(ライブでは)頑張っていたと思いますよ。その他、今も良く覚えているのは、演奏を終えて自宅に帰っても、朝窓を開けるとファンの子が10人位集まっていて、「ケン、ケン」と言っててね。

I:当時は住所も公開していましたからね。

NK:(演奏を終えて)表に出ると50人位女の子が集まってるんですよ。当時はそれが当たり前のように思っていましたね、贅沢な話ですが。

サインをねだられて、住所を書いてと言われるとスパイダクションの住所を書いた物です。訪ねていった人は驚いたでしょうけどね。

 

 

H:その後、「泣かないで泣かないで」で、これがビーバーズの最後の曲になるわけですが、これは元々スパイダースの持ち歌になる話だったとか。

NK:それは後で知ったんですよ。これを好きな人もいて、やってくれと言うんですが今では一寸無理ですね。曲としては良い曲だと思うんですけどね、インパクトが弱かったかな。

H:69年の4月に解散と手元の資料にあるのですが・・・

NK:最初はみんな解散の方向に向かっていたんですが、僕一人もう一寸やろうと言ってたんです。それがある日僕がふと解散しようかと言ったら、脱兎のごとく解散に向かっていきましたね。待ってましたとばかり(笑)

N:クーデター計画があったとか。

NK:そうですね、ドラムをまずクビにして、早瀬さんを抜いて5人でやろうとしてたんですが、ドラマーが見つからなかったんですよ。

N:それが実現していたら凄いことになっていましたね。フラワートラベリングバンドの結成が遅れていたことでしょう。

NK:それで解散と言うことになったので、平井正之さんに、当時それほど仲は良くなかったんですが、バンドを一緒にやらないかと言いました。そうしたところ石間秀樹が怒ってしまったんですよ。(自分に相談も無しにと言うことで)
ですが、僕もハードロック系のバンドがやりたいと思っていたので、彼とバンドを組むことにしたんです。 その後、ツェッペリンやクリームやらをやって凄く楽しかったですね。

N:それでエモーションになるわけですね。

NK:一年位やってましたかね、エモーションが一番楽しかったですね。元町のミュージックレストラン、アストロでのライブを録音したオープンリールが1本有ったんですが、(アストロの)引っ越しの時にチーフが誰かにあげてしまって、それが九州に行ったとかで行方不明になったんです。レコーディングしなかっただけに、今思うと本当に残念です。
レコーディングの話もあったんですが、その時に病気になってしまって。

H:活動はライブハウスがメインでしたか。

NK:アストロを中心に、新宿のサンダーバードに月に2回位出ていました。アメリカンスクールの学園祭にも行きましたね。

その後結核になってしまって、一年休んで、その後ソロでやらないかという話があり、エモーションの連中は直るまで待ってくれて、また一緒にやろうと言ってくれたんですが、結局裏切った形になってしまいました。
それから今までソロでやっているわけですが、入院していた時に作った曲をミッキーカーティスさんがレコードで出そうと言ってくれて、2.3曲少なかったのを足して、ソロアルバムを作りました。

H:ソロでの活動というのは、どうだったのでしょうか。

NH:アイ高野がドラムでジョン山崎がピアノ、エディ播がギター、当時スタジオミュージシャンで売れっ子だった「M」というバンドにいた岡田明がベースでした。殆どゴールデンカップスの残党という感じで、 他にジプシーブラッズにもやって貰っていましたが、彼らはその後バックバンドでなく自分たちでやりたいと言うことで離れていきましたね。六本木の俳優座、日比谷の野音、郵便貯金ホール、厚生年金ホール等で成田賢としてやっていましたね。

H:ロックフェスのような物ですか。

NK:いや、日本語のロックとフォークと言った感じでやっていました。小坂忠、、ガロと一緒にやったりしてました。はっぴいえんどともやりました。

H:丁度GSが終わって日本のロックの時代になった頃ですね。

NK:裕也さんはロックは英語じゃなきゃだめと言ってましたが、ミッキーさんは日本語でも良いじゃないかと言うことでした。一度ミッキーさんの家で、裕也さんに僕のレコードを聴いて貰ったんですが、その時は「面白いじゃない。」って言ってくれてましたが。
まさに、今ある日本語のロックの先駆けと思っていたんですが、今ひとつ売れなかったですね。
それでも7000枚位は売れて、コロンビアの人は驚いていましたけどね。

H:LPですよね。

NK:コロンビアの人も成田賢は大歌手だと言ってくれて、演歌よりずっと売れたって(笑)

ただ、ヒットさせようとか、売れたいとかそう言った気持ちがなかったんですよ。画期的なことをやりたい、そう思っていました。今でも良かったと言ってくれる人もいますが、当時もう少し売れることを考えたら違っていた物になったとは思いますがね。

 

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