アウトロウズからビーバーズへ

 

新所沢スタジオNaveにて。ベースは加藤充さん、隠れてますが、ドラムは前田富雄さん

 


NK:その後ギターが入れ替わって、6人になりました。それでMCがこっちに回ってきましてね、嫌でしたね。喋るの得意じゃないんですよ。

H:私は、ステージを見たことがなかったんですが、その辺りは全部早瀬雅男さんがやるのかと思っていましたが。

NK:いやそうじゃないんですよ。早瀬くんと言えば今は名古屋で実業家になられていますね。先日久しぶりに電話がありましたが・・・

N:「あの人は今」のような番組で見たこと有ります。

NK:「もう歌わないの」と聞いたんですが、もう太っちゃってと言ってましたね。

N:アウトロウズのファンは、スリーファンキーズから流れてきたんでしょうか。

NK:いや、ビートルズファンですね。ビートルズナンバーが多かったですから、ただ、看板は早瀬くんでしたが・・・
(それというのも)当時はまだ、ライバルと言ったバンドがいませんでしたからね。GSは最終的に400位有ったらしいのですが、当時はまだ50か60位でしたから。

H:66年の2月にアウトロウズになったと資料にありますが、66年と言うとまだGSと言う概念がありませんから。

NK:当時は、3年間という短い間の中に沢山のことが凝縮されているんですね。もう雨後の竹の子のようにバンドが出てきたじゃないですか。今では到底考えられませんね。

H:アウトロウズのステージの選曲はどのようにして決めていましたか。

NK:殆ど、ビートルズですね。ビートルズは徹底してやりました。他にはキンクス、ゾンビーズ、そうしたマニアックな曲のファンも多かったですね。横浜では、ワンマンでした。2ステージ位やったのかな。ですから、アウトロウズ時代から人気はありました。その後1年半位レコーディングに恵まれなかったんですが、石間秀樹のギターが良いと言うことになり、キングでレコーディングしました。

H:そのころはもうスパイダクションにいたのでしょうか。

NK:アウトロウズがビーバーズになったときに入りました。それまでは共同プロでした。(前ページ参照)

N:映画「逢いたくて逢いたくて」に出た頃は共同プロだったわけですね。

NK:そうです。

H:手元の資料によりますと、新宿ACBの出演バンドに、早瀬さんと長沢純さんで出ているんですが、このころはアウトローズとは別に単独で出られていたんでしょうか。

NK:そんなこともあったかも知れません。良く覚えていないのですが。

H:アウトロウズの活動の場はジャズ喫茶ですか。

NK:そうです。新宿ACB、銀座ACB、新宿ラセーヌ、池袋ドラム、他に上野、銀座のテネシーとか、(他にも)すぐ無くなってしまったような所まで、いっぱいやりました。

H:大体都内、横浜当たりですか。

NK:そうですね、横浜ロンスターと言う駅の中にあるところとか、西口のプリンスなど、演奏が終わって出ていくとファンの子が100人位いるんですよ。当時自分たちは人気がないと思っていたんですが、それが当たり前と思うようになってきましたね。生意気でしたが。

H:66年の12月にヤング720に出ていましたが。

NK:準レギュラーだったんですよ。週一で出ていました。ですから、地方に行くと720で見てくれたファンの子達がわーっと来てくれましたね。

H:私も多分始めてビーバーズになってたと思いますが見たのが720だったと思います。

NK:あと、レッツゴーキングという番組に出てましたね。

H:当時は、そうしたレコード会社の番組がたくさんありました。

N:私も「今月の歌」と言うようなコーナーで、デビュー曲がかかっていたのを覚えています。一月位流れていました。

 

アルバム「ビバ!ビーバーズ!」

 

H:さて、その「初恋の丘」」が、67年になって出るわけですが。

NK:そうですね、「初恋の丘」は、割と取っつきやすい曲なんで、オリコンで36位だったと思います。

H:最初に、この曲で行くと言われた時はどう感じましたか。

NK:初めは多少抵抗がありました。キンクスとかゾンビーズとかやってきて、いきなりこれかという感じで、歌謡曲という概念がありました。
でも、できるだけその意識を持たないようにラテンロックと思ってやりました。これがベストテンに入る曲だったらまた違ったかもしれませんが。

H:私は、「初恋の丘」は凄くキングレコードっぽいと感じました。491もそうなんですが、青春という感じがしますよね。

NK:だから、完全にターゲットが中高生なんですよ。僕も不良なのにこんな歌うたってるって・・・(笑) そう言う抵抗感はありましたけど。

N:石間さんはギターで抵抗していましたね。

NK:イントロのギターなんですが、一見簡単そうに聞こえるんですが、一寸出来ないんですよ簡単には。そうしたところで抵抗してるんでしょうね。

H:編曲はビーバーズですか。

NK:大野さんがやってくれたんではと思います。

H:曲の世界は石間さんのギターですね。ギターの音がキーボードに聞こえるんですよ。なんでキーボードいないのにその音がするのか不思議でした。

NK:彼はライブでも1曲ごとにギターを調整するので、その間喋らなくてはいけないんですよ。テンプターズなどは、曲繋ぎでどんどんやるんで、観客もわーっと盛り上がるんですが、こっちは1曲ごとにもったりもったりしていて。(笑)

I:1曲ごとに換えていたんですか!

NK:だから、ゾンビーズをやる時にはオルガンの音、ストーンズをやる時にはピアノの音、と言ったように。

H:どのようにしてそうやってたんでしょう。

NK:彼はね、非常に音に関してまじめ(研究熱心)なんですよ。これは今でも変わりませんね。(アンプは)ツインリバーブを使っていたと思うんですが、いちいち調整するんです。もうレコードとそっくりにやるんですね。あれは天才的です。

H:それが「君なき世界」に繋がっていくんですね。

NK:「君なき世界」は名古屋の有線放送では1週間トップでした。オリコンは56位くらいだったと思います。だから、もう少しヒットしていればビーバーズの名前も残ったんでしょうけどね。別に悔いはないですが。

H:「初恋の丘」に戻りますが、イントロのギターから、ハーモニカに移りますよね、あの音が切なくて良いですね。

NK:あれは普通のハーモニカでブルースハープではないんですね。キーのある物で、Dだったかな・・・今はもう吹けないですね。(笑)

I:クロマティックですか?

NK:いや、クロマティックとは違うんです。縦に2列ある普通の物ですが、色々とキーがあったんですね。それで、大野さんがこの曲にはハーモニカを吹くといいと言ってくれました。ブルースハープではあの音は出ないですね。

N:ブルースハープは当時もう演奏していたんでしょうか。

NK:アウトロウズの後半からやっていました。メンバーからの薦めもあってやってみたんですが、全て自己流で、段々と出来るようになってからポール・バターフィールド、ブルース・ブレイカーズとか聞きながら覚えていきました。「ビバ・ビーバーズ」の「アイム・ア・マン」の時は始めてから半年位でした。

H:ビーバーズというのは音作りのバンドだったんですね。

NK:そうですね。当時は、ルックスとか若さでは負けても音では他のバンドには負けないぞという自信がありました。

I:ルックスと言えば、ユニフォームは着ておられましたね。

NK:「君なき世界」から変わったんですが、そのあとまたユニフォームに戻っちゃいましたね。

H:「初恋の丘」はいかにもGSと言う感じですね。

NK:これはイタリアのファッション雑誌から取ったんですよ、リボン付けたりして。石間秀機は嫌がっていましたが。(笑)

H:でも、ルックスで負けてもと仰ってますが、成田さんも早瀬さんもアイドルですよね。

NK:昔のブロマイド見た人からは、「アイドルなんですね。」と言われますよ。音を聞いていない人はそう思っていたようですね。

H:ビーバーズの頃は二十歳位ですか。

NH:そうですね、22・3です。一つサバ読んでいましたが。(笑)

H:「初恋の丘」「君なき世界」のジャズ喫茶での受けはどうだったんでしょうか。

NH:「初恋の丘」をやってるときは、「なんだこれ」みたいな感触がありましたが、「君なき世界」は受けが良かったですね。アウトロウズ以来のファンにしてみれば、こっちの方がしっくり来たのでしょう。

N:そのころ、私は始めて生で見たのですが、男のファンも多かったですね。

NK:そうですね。マニアックなファンが多かったです。大貫憲章さんも石間秀機のファンでしたね。

 

次回に続く

 

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