第12回は元「ビーバーズ」の成田賢さんです。

 

 


 今回は、アニソン歌手としても有名な元「ビーバーズ」の成田賢さんをご自宅近くのファミレスにお呼びしてお話を聞きました。

例によって、成田賢さん(NK)、中村俊夫さん(N)、秦(H)、服部(I)で始めさせて頂きます。

I:それでは宜しくお願いします。

NK:はい、宜しくお願いします。

H:毎回皆さんにお聞きしているのですが、今回も成田さんには、「ビーバーズ」以前と以後、そうしたお話しを時間軸に沿って進めていこうと思います。

さっそくですが、私の資料によりますと、終戦直後のお生まれとか。

NK:そうです、満州の大連で、終戦の2ヶ月後に生まれました。

H:それは大変な時でしたね。

NK:幸い割と裕福な家庭に生まれたので、余り苦労はしなかったんですが、5歳の時に親父が亡くなって、それからが色々と有りました。

I:ご両親は満州でどんなことをされていたんですか。

NK:魚の卸問屋をやっていました。大連で一番の魚問屋でしたね。それと大連の近くに牧場も持っていました。

それが2歳の時に引き上げてきまして、その後先程お話ししましたが、5歳の時に父が亡くなり、その後母は一人で私を育ててくれました。

I:当時はどちらにお住まいだったんでしょうか。

NK:九州の博多に前原と言うところがありまして、そこで魚の脂から作る醤油(魚醤)を作っていました。そこで苦労した疲れがあったのだと思いますが、父が亡くなったあとはお袋の実家のある札幌に引っ越しました。

I:九州から北海道ですか!

NK:満州、九州、北海道と移動ですよ。その後バンド活動で関西も行きましたから本当に日本列島縦断でしたね。

I:青春時代はずっと札幌で過ごされたんですか。

NK:そうです。5歳から17歳までいました。

H:物心ついた頃の音楽の記憶というのは札幌からですか。

NK:そうですね、うちはお袋が音楽が好きだったんですよ。(お袋は)若い頃宝塚の試験に受かったんですが、家の事情で行けなかったんですよ。ですから僕にも、「自分の好きなことをやりなさい。」と言ってくれていました。

ですから、子供の頃からジャズ喫茶にもつれていって貰っていました。そこでクレイジーキャッツを見たり、宝塚にも連れて行って貰ったりと、情操教育にも熱心でしたね。

I:お母様のお好きな音楽というのはジャズですか。

NK:いや、そうじゃなくて、タンゴとか、社交ダンスが好きだったですね。

H:上流階級のたしなみですから。

NK:いや、そんな物ではないんですが、ただ小さい頃から上質な音楽に囲まれていました。それもお袋のおかげですね。まあ、普通小学校3年生ではクレイジーを見に行きませんからね。(笑)

H:それは札幌に来た時にご覧になったんですか。

NK:そうですね。全盛期の少し前位の時期でしたでしょうか。

I:成田さんご自身もそうした音楽に囲まれた環境だったわけですね。

NK:小学校の頃の音楽の成績も悪くなかったですよ。
小学校1年の時に学内放送「たきび」を歌ったんですが、言わばそれがデビュー曲ですね。(笑)
音楽の時間でも、いつも先生から歌が上手いと言われてました。

(ただそれで歌手になろうと思っていたわけではなく)小学校5・6年の頃ですかね、自動車が好きになったんですよ、それで自動車のデザイナーになろうかと思いました。 その前には漫画家になりたくて通信教育を受けたこともありました。
今考えると笑っちゃうんですが、手塚治虫さんに原稿送ったりしましてね。そうして車を描いてるうちにデザイナーになりたくなったんです。

それで、車のデザイナーになるにはどうしたらいいかと思い調べたところ、工業大学を出なくてはいけないと 言うことで、工業大学に行くには数学が必要だったんですが、僕は数学がからっきしだめで、それであきらめました。

その後は、グラフィックデザイナーを目指し絵を描いていました。ある時、北海道高校美術展に応募した絵が 特選を取って、デザイン会社から勧誘もあったんですが、自分としては将来的に、広告のチラシを書いたりするような物は嫌だと思い、断りました。
僕は当初学校の成績も良かったんで(注:1、芸大を目指していたんですが、それが段々と成績が落ちてきて、ぐれてきましたから(笑) あきらめました。

I:それは音楽が原因ですか。

NK:そうです、段々とバンドをやってる方が面白くなってきたんですね。

 

 

I:バンドは中学生位から始められたんですか。

NK:いや高校になって始めてバンドを組みました。当初はウエスタンとかハワイアンをやっていまして、学校の文化祭で演奏していました。そのうちに面白くなってきて、ドラムを叩くようになり、他の学校の人達とエルビスやデル・シャノンと言った物をやるようになってきて、ウエスタンとかよりそっちが面白くなってきました。
そこから絵を描くより音楽の方が好きになりました。
そのうち段々と成績が落ち、学校にも行かなくなりましたね。

I:そういうことについて、お母様からは何か言われたりしませんでしたか。

NK:いや、言われました。ただ、留年してでも学校は続けるから、音楽をやらせてくれと言いました。
そうしたら、そんなに音楽が好きだったら音楽をやればいいと言ってくれました。

そうこうしてるうちに、第一プロの新人発掘コンテストがありまして、 僕はそれに応募して、1曲目は「ハウンド・ドッグ」を歌ったんですよ。2曲目は「ルイジアナ・ママ」を歌うつもりがまた「ハウンド・ドッグ」を歌ってしまったんで2位になってしまいました。
その時は1位が無くて2位が二人でした。もう一人の人は「ヴァケイション」を歌った女の人でしたね。

それで、1位だと東京でデビューできるはずだったんですが、それが出来なくなってしまったんです。

その後、第一プロの傘下の共同プロと言うところに「ジ・アウトロウズ」として所属するので、結果的には巡り巡ってここに来るんですが・・・

そして、このジャズ喫茶(コンテストの会場となった)のマスターに気に入られてそこで歌うようになりました。

H:それは高校生の時ですか。

NK:高校2年の時ですね。。

H:石間秀機さんとは、もうお会いになっていたんですか。

NK:彼は京北商業高校で、僕は北高校、京北商業高校の文化祭で合同バンドで演奏したのが、彼との最初の出会いでした。

そうして歌っているうちに、大阪のバンドから誘いがありまして、では、行きますと言うことになったんですが、その予備期間として札幌のマネージャーの家で2ヶ月ほど、身の回りの世話をしていました。その後付いていったんですね。

H:そのバンドが大阪の「ゲイスパーズ」ですか?

NK:いや、「ケイパーズ」ですね。そのドラマーの人が誘ってくれたんですよ。でもいつまで経っても、新しいバンドを作ってくれる様子もなく、坊や扱いなんですよ。大体、大阪駅に着いたとたん「坊や、赤帽呼んでくれ。」と言われました。「あれーっ、坊やかあ。」と思ったもんです。

その後、新しいバンドの話は立ち消えで、「ケイパーズ」で歌ったり「ワゴンエース」で歌ったりしていました。

その頃に、「サンズオブウエスト」の加藤(充)さん、大野(克夫)さん(元スパイダース)に会ったんです。

I:当時のお住まいはどちらだったんでしょうか。

NK:マネージャーさんの家に下宿していました。そこから京都行ったり神戸行ったりしていました。

H:加藤さんとの出会いは?

NK:その時、「太陽は燃えている」という歌を歌っていたら、そのあと、加藤さんからお茶を飲みに行こうと誘われたんです。
それで「おまえの声はエコーがかかってるなあ。」と言われましたね。嬉しかったですね。 その後はまた「ビーバーズ」として「スパイダース」と同じ会社に所属したんですが。

あと、同時に大野さんとも知り合いまして、、後日僕がCMソングを作って、大野さんに編曲をお願いしたところ、「これ、おまえが作ったのか?」と驚かれていましたね。奥さんとも面識有りました。

I:サンズオブウエストは当時もうすでに有名だったんですか。

NK:そうですね。大野さんはまだスチールギターでした。

N:西郷輝彦さんが坊やでいたとか聞きましたが。

NK:そうですね、やけにルックスの良い子がいるなと思ったら、あっという間に東京に行って売れてしまいましたが。

僕の方は当時ミュージックライフの関西の新人紹介でボビー・ライデルとかレイ・チャールズとか歌ってる成田賢一君(当時の名前)と言って紹介されていました。
関西に行ったのは、 いきなり東京に行くよりも、ワンクッション置いてから行った方が良いと思ったからなんですが、結果的に間違いではなかったなと思いました。
色々と暗い時もありましたが、ここまでこられるとは正直思っていなかったですね。

ある日、「スリーファンキーズ」と共演した時に、そのドラマーの人から「東京に来ないか」と誘われました。

H:それはケイパーズのあとですか。

NK:ケイパーズでも歌っていたんですが、18か19の頃に東京に一度出てきまして、「中村ヨシオとダークホース」で、地方周りしていました。そのバンドが函館で解散しまして、函館でうろうろしてる時に「ファミリーズ」という石間秀機(注:2 のバンドに出会いました。ここには他に「シャープファイブ」の伊東昌明、「ボルテージ」の金剛文裕、柴田明といまして、北海道一と言われていました。ところが、ベーシストが抜けてしまっていて解散状態だったんです。それで、石間秀機が一緒にバンドをやろうという話になり、「ジャローズ」というバンドを作りました。
その時に、地方公演に来た、スリーファンキーズと共演したんです。
それで、その際、一人で行くのは嫌だったんで、大阪の件もあり(笑)石間秀機と一緒に行きたいと言いました。
そこで「ジ・アウトロウズ」として始まりました。

N:ボーカルが4人いたんですよね。

NK:そうですね、当時はまだGSと言う形ではなかったです。でも一人はブロマイドの写真を撮ったら止めてしまいました。(笑)先行き暗いと思ったんでしょうね。もう一人も意見が合わずに止め、それで二人になりました。

 

(注:1 北海道立札幌北高校。ラサールと並ぶ進学校だそうです。

(注:2 成田さんのお話のイメージをお伝えするために敢えて敬称を略させて貰います。

 

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