第11回は前田富雄さんの後編です。
前田さんのお店です。 今回も前回に引き続き、前田さん(M)、服部(I)、秦(H)、そして中村俊夫さん(N)でお送りします。 I:ドラムセットはそのまま田辺さんのを使われたんですか。 M:そうです、Primierのセットですね。 I:(スパイダースの)最後まで使われたんですか。 M:そうですね、ずっとこれでした。当時まだ買ったばかりでしたからね。 H:明日から新メンバーと言うことで改めて田辺さんからの一言はあったんですか。 M:いや、無かったですね。 N:メンバーになって給料は上がったんですか。 M:上がりましたね。でも最初は安くて、月に一回くらいは衣装を買わなくてはいけないんですよ、それがまた高いんですね。 I:衣装は自腹なんですか。 M:そうです。ベビードールとか英國屋とか一流なんですね。それで困っていたんですが、そのうちに堯之さんが事務所に給料を上げるように言ってくれたんです。 H:坊やの頃はそうした昇給はあったんですか。 M:いや、無いです。でも田辺さんがお小遣いをくれたりしたんですよ。そのお小遣いの方が給料より多いんですよ。競馬で勝ったりとかどこかにお使いに行ってきた時などにポンとくれました。 I:やはり、音楽には厳しいと言うことでしょうか。 M:そうですね、あと礼儀とかにも。自分がそう言われてきたからだそうですね。 N:あの時代の人達は皆さんそうですね。 M:田辺さんは元々ドラマー志望ではなかったんですよ、堀さんから「おまえ、ドラムやれ」といきなり言われてその後の人生が決まってしまったんですね。ただ、もうプロとしてのデビューなんで他の人に聞くわけにも行かず自分で随分練習したとのことです。努力家なんですね。 H:スパイダースのメンバーになってからはテレビ、ライブなどの活動の他には「エレクトリックおばあちゃん」のレコーディングがありましたね。 M:そうですね、レコーディングはあれ1曲でした。でも、坊やの頃に実は、テンプターズの「純愛」のB面の曲を叩いているんですよ。 N:そうなんですか、驚きました。 M:実はレコーディングの時に、大口ひろし君が間に合わなくて、僕がかり出されたんです。だから良く聞くと音が違うのが分かると思いますよ。 N:レコーディングはそれが最初だったんですか。 M:いや、そのまえにも(坊やの頃に)「ブルースエードシューズ」(ロックンロールルネッサンス)を叩いていますね。 H: 「エレクトリックおばあちゃん」のレコーディングについては何か覚えていらっしゃいますか。 M:歌は入って無くて、いきなり演奏に入って、もうそのまま本番です。前もって練習とかはありませんでした。 H:前田さんはコーラスに参加はされてるんですか。 M:いや、歌は歌っていません。でも一度ステージで「ハウンドドッグ」を歌ったことはありましたね。 と言うのも、その日は船橋のヘルスセンターでライブがあったんですが、かまやつさんが遅刻されて、ステージに間に合わなくて、その持ち時間が空いてしまったんです。それでマチャアキが「前田なんか歌えよ。」と言うんですね。それで前にテレビでタイガースと共演した時にパート毎で1曲歌うという演出があって、僕とピーで「ハウンドドッグ」を歌ったんです。それでこれをやることにしました。 H:それはドラムを叩きながらですか。 M:いや、前に出て歌いました。 H:ドラムは誰が叩いていたんでしょう。 N:それは多分堺さんじゃないですかね。 M:それ以降ジャズ喫茶でも少しずつ歌うようになりましたね. H:かまやつさんは遅刻が多かったんですか M:多かったですよ。電車に乗り遅れたりとか・・・ N:なんせ、ジャケット撮影に間に合わなかった人ですからね(笑) M:後は順さんもたまに・・・ H:そういう時は田辺さんはどうでしたか。 M:そりゃもう大変ですよ。 H:それで70年の12月に解散が決まって、1月の日劇が最後になるわけですね。その後「ファーラウト」に入られるんですね。 M:ファーラウトのボーカルの宮下文雄さんが、そのウエスタンカーニバルでスパイダースが黒い帽子をかぶって演奏したとき、袖で男の子と女の子が踊るのですが、その男の子役が彼だったんです。 H:最初のライブというのはどこでしょうか。 M:日比谷の野音でした。ファーラウトのバックグラウンドには、写真は写真家の池 敏文さん、衣装はコシノジュンコさん、音楽は、内田裕也さん、かまやつさん、ミッキー・カーチスさん、営業は湯川れい子さんがついていましたね。 N:結成はいつごろだったんでしょうか。 M:スパイダースの解散のすぐ後ですね。 N:では、1月くらいでしょうか。僕は実は三越の屋上で6月にファーラウトを見てるんですよ。 M:そういえばやりましたね。 H:ライブハウスのようなところは出ていたんでしょうか。 M:いや、そのころはまだ始まったばかりということで出ていませんでした。大抵は、大きな会場か、デパートの屋上といったところでしたね。 N:当時は結構デパートの屋上でいろいろやっていましたね。 H:「シュシュ」(注:1)の話をお伺いしたいのですが。 N:A面が英語B面が日本語というものですね。 M:企画ものですね。シュシュで汽車だからということで青梅のSLのある公園に撮影に行ったりとか。湯川さんがプロモーションしてたので大きなところも出ましたね。「グランドファンクレールロード」の大阪球場でのライブの前座とか。 I:ファーラウトというバンド名は自分たちでつけたんですか。 M:詳しいことは覚えていませんが、宮下さんが考えたのかなあ。 N:当時のヒッピー用語だったようですね。 H:ネットで調べたんですが、「五つの赤い風船」の解散コンサートでかまやつさんのバックをやってるという映像があるらしいのですが。 M:よく覚えていませんが、かまやつさんのバックはやっていました。 N:ファーラウトはオリジナルを結構やっていたと思いますが、そうした曲のレコード化はされているのでしょうか。 M:ワーナーから出てるオムニバス版に入っています。 N:そうですね、あれだけなんでしょうか。 M:そうだと思います。 H:当時の録音テープとかはないんですか。 M:ないですね。練習はよく渡辺プロの青山スタジオでやっていましたが、その録音とかはしませんでしたね。 N:ファーラウトのオリジナルは宮下さんが作られていたんですか。 M:そうですね。 N:宮下さんはファーラウトについてどんなコンセプトを持っておられたのでしょう。歌詞も全部英語でしたよね。 M:やっぱり、フリーみたいなバンドをと思っていたようです。 N:当時はどんな音楽を聴いておられたのですか。 M:フリーとかクリームとか、そのあたりです。 N:スパイダース時代にもやっていましたね。 M:そうですね、「5/7」とかで。ボーカルの二人がいないので残ったメンバーでロックをやろうということで、堯之さんもハードロックが好きでしたし。だから、田辺さんが抜けてからそうした曲をやるようになりましたね。田辺さんはそうした曲をやりませんでしたから。 N:当時のナンバーで覚えているものは何でしょうか。 M:そうですね、「クロスロード」もやりましたし、「Changes」(バディ・マイルズ)とか、モット・ザ・フープル、フリー・・・後いろいろとやっていたと思います。全部は覚えていませんが。かまやつさんと堯之さんがボーカルなんで、自分たちのやりたい曲を持ってきましたね。 H:(堺さんと井上さんがいないので)そうした演奏が出来るようになったというわけですね。 N:末期のスパイダースは本当にロックバンドと言っていい高レベルだったと思います。 I:ファンの人達の反応はどうだったでしょうか。 M:いや、別に変わったことはなかったですね。その時代に流行った曲をやっているので、違和感はないようでしたね。
注:1 ファーラウト唯一のシングルレコード。ミッキー・カーチス氏のアルバム「サムライ」の中の曲。♪金比羅舟、舟、シュラシュシュシュから名付けられたと言うことでした。 |