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第10回は、8人目のスパイダース前田富雄さんです。
前回の加藤充さんに引き続き、今回もザ・スパイダースから、8人目のスパイダースと言われた前田富雄さんにお話を聞くことが出来ました。 今回も、ライターの中村俊夫さんが参加して、3人で前田さんの自宅の近くにある喫茶店でお話を聞きました。 いつも通り、服部(I)、秦(H)、中村さん(N)とさせて貰います。 I:H:N:よろしくお願いします。 前田さん(以下M)はい。 I:前田さんはお生まれは? M:昭和23年9月17日です。 I:それ以来ずっとここにいらっしゃったんですか? M:いえ、生まれは大阪なんですよ。子供の頃からドラムが好きでして、高校時代にはベンチャーズバンドを組んでいました。 I:音楽の目覚めのきっかけというのは、ベンチャーズなんでしょうか。 M:いえ、そう言うわけではなくて(音楽に影響を受けたのは)特に誰ということはないですね。中学時代はブラスバンドをやっていまして、バリトンを吹いていました
。 H:その時はドラムをやっていらっしゃったんですか。 M:そうですね、見よう見まねで。 H:それは、結成する時にパートを決めたんでしょうか。 M:いや、僕は最初からドラムがやりたかったんです。スパイダースの田辺さんに憧れていましたから。 H:当時はスパイダースは、「フリフリ」の頃、まだ初期だったでしょうか。 M:テレビで見た時にかっこいいなあと思いましたね。 I:まさかその後にそこに入るとは思いもよらなかったでしょうね。 M:そうですね、ただ、その当時からプロのドラマーになりたいとは思っていました。それで高校を出てから上京しました。 N:確かお母様と一緒に田辺さんの目黒の自宅にお出でになったとか・・・ M:そうそう。その時は(田辺さんは)留守だったんですよ。それでマネージャーの大川さんが、ジャズ喫茶に出てるからそっちに行ってみればと仰いました。 N:お母様は賛成してくださったのでしょうか。 M:そうそう、でも、ただすぐには会って頂けなくて、その後2回位行きましたかね。 I:それは日を改めて行かれたと言うことですか。 M:そうですね、また二日後に。お袋はすぐ帰ってしまいましたが、こちらに親戚がありましてそこに泊めて貰いました。 N:田辺さんは就職した方が君のためになると仰ったとか。 M:マネージャーの小野さんが田辺さんに取り次いでくれたんですが、そう言うことを言われたかと思います。 N:田辺さんとしてはそうなだめて帰そうと思ったんでしょうね。 I:でも、結局最後は引き受けてくださったんですよね。 M:そうですね、どうしてもやりたいという気持ちが強かったですから。 H:最後は田辺さんの根負けですね。 M:そうですね。 I:それでバンドボーイ(坊や)として入られたわけですね。 M:そうです、その当時スパイダースには結構坊やがいて、ドラム担当もいまして、それが川上さん(後のアダムス在籍)でした。 M:身の回りから全てですね、セッティングとか。楽器を運んで演奏できる状態にすると言うことですね。 I: 勿論皆さんミュージシャンを目指しているんですよね。 M:そうです。川上さんの他、中村ケントさん(内田裕也とフラワーズのボーカル))もいました。井上堯之さんに付いていましたね。自分のやりたい楽器のメンバーに付いていました。 I:その坊や仲間で演奏したりするようなことはあったんでしょうか。 M:演奏することはありませんでしたが、日劇なんかでいろんなバンドの坊や仲間が集まると、よく話し合ったりしていましたね。 H:当時スパイダースには坊やは何人位いたのでしょうか。 M:多い時は10人位いましたね。(一同驚き) N:、前田さんが入られたのが67年3月という事になっていますね。 M:そうですね、凄い忙しかった時です。 H:シングルで言うと・・・ N:「太陽の翼」辺りでしょうか。 M:そうですね、そのころです。
下段真ん中が若き日の前田さん、その左が加藤さんですね。
H:最初の仕事というのはどんな仕事でしたか。 M:楽器をケースに入れて運ぶことですね、楽器のセッティングは川上さんがいましたので、彼がやっていました。 H:普通の会社員のように朝はスパイダクションに出勤したりするのですか。 M:いえ、坊やは坊やで部屋がありまして、そこから全員で、車に楽器を積んで会場に行くわけです。 H:最初に行かれた仕事場はどこだったんでしょうか。 M:TBSだったかな・・・ H:その時に他のGSも一緒に出られることがありましたか。 M:ブルコメは割と多かったですね、後は一般の歌手の人。歌番組ですから。 I:(坊やの)給料とかは出たのでしょうか。 M:週間平凡でスパイダースのバンドボーイ達の特集を組んだことがあったんですよ。その時に出てたんですが、6千円とか、8千円とかその辺りだったかな。 N:当時大卒の初任給が1万2千円位でしたからその半分位ですね。 M:とても自由に飲んだり食ったり出来ないです。ただ、住むのは坊やの合宿がありましたので、食べることだけだったんですが。 H:仕事は、バンドが仕事のある限りやらなくてはいけないのですね。 M:そうです。その当時売れていましたから、メチャメチャ忙しいですよ。大体寝るのが2.3時間ですね。なにせ、メンバーより先に行って、メンバーより後に帰るわけですから。 N:スパイダクションと書いた車ですよね。 M:最初がワーゲン、その次がベンツでしたね。その後がいすゞだったかな、すぐ壊れちゃいましたが。色はずっと赤でした。 H:荷物はどんな物でしたか。 M:衣装に、アンプ、ドラム、ミキサー、一寸したPAですね。大きな会場ならそこにある物を使いますが。 N:良くあのワゴンに入りましたよね、他に人が乗るわけですから。 I:キーボードも載せるのですよね。 M:最初はVOXの物で小さいので良かったんですが、ハモンドになってから大変でした。おまけに、関東と関西ではサイクル(関東は50hz、関西は60hz)が違うので、それに合わせなくてはいけなかったんです。注:1 H:まあでも、電圧のことは分かりませんよね。田辺さんに怒られるという話は加藤さんの時にも良く聞きましたが、やはり大変でしたか、いろんな物が飛んで来るという話も聞きましたが。 M:そうですね(笑) H:田辺さんはどういう事で怒るのでしょうか。 M:やはりミスですね。それ以外はそんなに怒りません。後、楽器のセッティングですね。セッティングが悪くて、ペダルが外れたというようなことがあった時は、外に連れ出されて殴られました。シンバルの高さとかも一寸狂うとぶたれるんですよ。 最初は川上さんがやっていたんですが、止められてから自分の仕事になりそれを覚えなくてはいけないんです。 ですから、田辺さんが演奏する前にドラムをいじらないかどうかはらはらしてみてるんです。そこで、どっかの位置を直したらもう後で殴られるんです。最初の頃はよく怒られました。 H:まさに体で覚えるですね(笑) M:シンバルなども、とにかく手で触って角度を覚えたり、バスドラムの位置も一寸角度が付いてたりするんです。スネアの高さとか、全てが微妙なんですよ。 I:そのセッティングがそののち、前田さんのセッティングになるわけですね。 M:そうそう、(長い間やってきたので)まるで同じなんです。スネアの角度もフラットなんですよね。 H:田辺さんからオーケーが貰えるまではどのくらいかかりましたか。 M:そうですね、4ヶ月位掛かりましたかね。 I:その間、ずっと殴られっぱなしだったんですよね。 M:そうですね(笑) N:やはりそれで止めていく人もいるんですね。 M:そうですね、耐えられなくなって。これは田辺さんだけでなくて他のメンバーでもミスをすれば同様です。 N:前田さんが耐えられたわけは。 M:それはやはり、自分がドラムをやりたい、プロになりたい、と言う意識が強かったからですね。大阪からお袋と上京してきて、何があっても帰れないという気持ちもありました。田辺さんからも、「大阪に帰れ。」と何回も言われました。 N:他のメンバーの方はどうだったんでしょうか。 M:皆さん優しい人ばかりでした。加藤さんも良く声を掛けてくれました。
注:1 関東のセットのまま関西に持って行くと電力が上がるのでピッチが上がってしまう。筆者も、学生時代ステレオを名古屋から東京に持ってきた際、回転数が違って(この場合遅くなる。)プレーヤーのプーリーを換えた覚えがあります。現代の電気製品ではそう言ったことはありませんが。 |