加藤さん第3回

 

 


K:当時は、富士急ハイランドとか大磯ロングビーチ(注1)とか良く行きましたね。

大磯の時など、裸で演奏してるでしょ、そうすると電気がバシッと来るんですよ。

I:危ないですね。

K:あと、滋賀県に伊吹山ってありますでしょ、そこで吹雪の中やったことありますよ。もう寒くてピックなんか持ってられなくて(笑)

段々と手の感覚が無くなるんですよね。それでも1ステージやりましたね。

I:GSのそうした人気と言う物がが段々と下火になってきたことを感じたことはありますでしょうか。

K:ジャズ喫茶が段々とすたれてきたんですよ。段々と客が入るようになってきてから、ワンステージ毎に客の入れ替えをするようになったんですね、それでジャズ喫茶の人気がなくなってきました。おごりみたいな物でしょうかね。

I:それはいつ頃からなんでしょうか。

K:大体昭和43年位でしょうか、それに加えて、マチャアキが「時間ですよ」のために週に1回か2回位しか全員で仕事をすることが出来なくて、いのやんや克夫ちゃんとスタジオプレーヤーとしてドラマの音楽をやったりしてましたね。

I:その頃は地方公演と言うのはどうでしたか。

K:あまりやってなかったですね。

H:いるメンバーだけで演奏と言うこともあったんでしょうか。

N:スパイダース5/7なんてのがありましたね。

K:順が病気で倒れてしまって、入院したなんて事もありました。肺気胸だそうで、見舞いに行ったんですが、元気でしたよ、病気になっても。
しゃべれないんですが口まねで、馬券の数字を言ったりして、4,4,4,って(笑)

H:こうして段々とGSが下火になっていったわけですが、、スパイダースというのは正式に解散したのでしょうか。

K:そうですね。昭ちゃんからメンバーに集合命令がかかって、メンバーも年取ってきたし、もう仕事も少なくなってきたから解散しようと言う話がありました。
その時順だけが猛反対しましたね、「絶対解散しないでくれ。」って言ってました。

私は、(先程言ったように、) いのやん、克夫ちゃんとスタジオプレーヤーとしてやっていくつもりでした。
実際はPYGが出来たので実現しませんでしたが。 ですから、私だけがスタジオプレーヤーになりました。
3年間やったんですが、あまり腕はないし、真剣味と言う物はなかったですね。

H:確かムッシュのソロアルバムは全曲加藤さんがベースだと思いましたが。

N:セカンドアルバムですね。

K:そうですね、あれは、つのだ☆ひろさん、成毛滋さん、あとガロの連中と一緒にやりましたね。

N:成毛さんも生前「加藤さんと一緒にやりました。」と仰っていましたね。

K:ああ、そうですか。いやあ、凄い楽器の数で、バンにアンプやらギターやら一杯詰め込んで、一体この人、何物なんだろうと思いましたよ。知らなかったんですよ、その時は、あの子が凄いところの子だって。(笑)

N:ブリジストンの御曹司ですからね。

H: スタジオミュージシャンになって、それまでのスパイダースのメンバーとは違う人と一緒に演奏することになったんですが、どう言う違いを感じましたか。

K:まず、カウントから困りましたよ。これじゃないんですから。(笑)(スティックを叩く動作をして)

H:田辺さんのワンカウントじゃないんですね。

K:指揮者の人の棒を降ろした時が、1なんですよね、でもどうしても私は、棒を振り上げた時に1だと思っちゃって。
「加藤さん、なんか早いかな。」 と言われちゃいました(笑)

以前聞いていたはずなんですが、中々慣れなくて大変でした。

あと、譜面もロックの場合はある程度パターンが決まってるじゃないですか、それが2/4で、16分音符が出てきたりして、考えないと弾けないんですよ(笑)
とても初見で弾けなくて・・・
コカコーラなんてのは楽でしたが。

N:CMもやってらしたんですか。

K:そうです。

N:他にはどんな物をやっていたのでしょうか。 国内で有名な物とか・・・

K:いやあ、覚えてないですね。全部譜面も捨ててしまいましたし、残っていたのは、森進一さんの「天草慕情」だけですね。あれは鈴木淳さんが指揮をされていましたが。

H:スタジオミュージシャンと言うことはカラオケ録ったらそれでもう終わりなんですよね。

K:そうですね、(ミュージシャンの名前も、)○○室内楽団とかで、一々名前も書いてありませんし。

N:それすら書いてない場合もありますからね。

K:仕事も(スタジオに)入るまで何をやるか分からないのでスリル満点でしたよ。入ったら、「ああ、今日は演歌か」みたいに。
「今日は童謡だよ」なんて聞くと帰りたくなるし(笑)

I:今迄はスパイダースとして同じジャンルの曲ばかりをやってきたわけですから、それが童謡から演歌までとなると大変ですよね。

K:そうなんですよ、チト河内くんとやった時なんか、コードしか書いてないんです。フィーリングでやってくれって。
そうすると凄く責任が重いんですよ。どう言う曲か分からないのにベースを弾かなくてはいけないので。

N:アドリブを要求されるわけですね。

K:どうしたらいいか分からなくて参ったですよ。

I:そうした作業が段々と辛いなと思われてきてスタジオミュージシャンを止められたのですね。

H:それが3年目位の時だったわけですか。

K:そうですね、それでミュージシャンを止めてサラリーマンになりました。克夫ちゃんのおかげで譜面が読めるようになったんですが、それでもスタジオプレーヤーとなるときつかったですね。演歌有り、童謡有りで、なんかほっとした音楽はないもんかと思いました。

N:スパイダースの解散が70年なんで、それが73年位ですか。

K:そうです、それですぐに渡辺プロの出版の方を紹介して貰ったんですが、話を聞きに言ったら、(副社長の)渡辺美佐さんが出てこられて「カッペちゃん、あんたを使いたい気持ちあるんだけど、あんたの後ろに田辺さんの顔が出てきてしまって・・・お互い使いづらいし、使われづらいでしょ。」と言われてしまいました。
じゃあ、止めましょうなんて話になって。まあでも、言って貰って良かったですよ。入っていたら、気まずい思いをしたかもしれませんし。

N:その後北島音楽事務所に行かれたんですか。

K:いや・・・それは前ですね。スタジオプレーヤーやってた時、「命くれない」の作曲の北原じゅんさんが赤坂で事務所を開いていたんですが、新しいタレントを探すので手伝ってくれと呼ばれて、その時に芸映から来た西城秀樹、あと西川峰子が候補に挙がったんですが、彼の作曲では、歌謡曲っぽくなっちゃうからと言うことで、西城秀樹が外れて、西川峰子で行こうと言うことになったんです。

そうしている内に、北原さんから、北島さんの手伝いに行ってくれと言う話になりまして、行ったら、丁度弟の大野専務が独立する準備をしていまして、(事務所の)絨毯張からやりました。そのうちにこっちの仕事も手伝ってくれと言うことになって、掛け持ちみたいになりました。

H:そのときに、加橋かつみさんが北島事務所に行ったんですか。

K:トッポを紹介したら、大野さんと意気投合してしまって、お互いの暗い過去の話になったり、「海の青さと空の青さは違うんだ。」なんて話になってきて、とても付いていけませんでしたよ(笑)

そのうちに北原じゅんさんが怒っちゃったんで、両方とも止めました。その後、アイジョージさんのマネジメントもやったんですが、最後の方は段々とちょっとね、やばくなってきたんで、半年で止めました。それからサラリーマンになったんです。

I:音楽関係の仕事はそこで終わりになったんですか。

K:北原事務所の時は新人を売り込むためにマチャアキに名前付けさせてグラビアの1ページに出したりとか、頑張ってやってたんですが、「カッペちゃん、なんかうろうろしてて目障りでいやだよ。」なんて嫌み言われちゃって、じゃあもう止めてやるって。その後ホテルの支配人とか紹介してくれたんですが、断って、自分で探すと言いましたね。他の人に迷惑掛けたくないからって。

H:それは堺さんが紹介してくれると言ったんですか。

K:そうですね、他にも色々あったんですが全部断りました。いのやんなんか怒っちゃって、「カッペちゃんそれじゃあ土方しかないぞ。」なんて(笑)

それで知り合いが部長をしていた保険会社に入りました。保険なんか出来るのかと言われてましたが、2ヶ月目で、支社の新人の2位になりましたよ。スパイダースのギャラより良かったですよ。

N:それは保険の営業と言うことですか。

K:そうです、飛び込みで行ってね。

N:と言うことは、加藤さんだと知ってる人もいたんですか。

K:いましたね。

N:僕の所に来てくれたら入ってましたよ(笑)

H:その時に最期のウエスタンカーニバルがあったんですね。

K:そうです。電話があって、夜の10時から2時まで練習やるから来いと言われて。こっちは朝8時から仕事があると言うのに(笑)
終わったら帰れるかと思ったら、その後食事に行ったりして、もうホテルで1時間位しか寝られなくて、そのまま会社に行きました。
それが4日間くらいありましたね。

H:それが加藤さんがスポットライトを浴びた最後の仕事だったわけですね。

K:そうですね。

 

注1:今で言うリゾートホテル。プールサイドでよくGSのショーがありました。名前の由来は、LAのロングビーチ。


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