今回は加藤充さんの第2回目です。
H:タイガースを連れて来損なったという話を聞いているのですが。 K:いや、そう言う話は聞いてないですね。 H:なんば一番で、スパイダクションの人から名刺を貰って、いつ呼びに来るのかと待っていたんですが、連絡が来なくて、そのうちに内田裕也さんが声を掛けたということだそうなんですが。 K:そうですか、いや私は、彼等から何もそう言う話は聞かなかったですね。(タイガースのメンバーは)京都なんで、良く一緒に行き帰りしましたが。 H:スパイダースのファンクラブにいた時代の、ファニーズ(タイガースの前身)というのは覚えていらっしゃいますか。 K:バンド自体は見たことなかったですね。ファンクラブの集いなどで、バンドやってるのと言うような話をしている内に仲良くなって一緒に電車で帰ったりしましたね。 H:その時に実はマネージャーからそう言う話を貰っていたと言うことは、加藤さんは聞いていらっしゃらなかったんですね。 K:そうですね。じゃあ、それは、マネージャーの小野さん(現オー・エンタープライズ)だ。 H:タイガースがデビューした時には、「ああ、あの時の子供たちだ。」とは分かりましたか。 K:ええ。最初は中井くん(タイガースのマネージャー)が苦労してましたよね。みんなの生活の面倒を見て。 N:身銭を切って家具とかを買っていたそうですね。 K:そうですね、あの狭いところで。だから、それを(そう言った苦労を)スパイダクションがやるかというと、やれなかったと思うんですよ。 H:そうですね、会社の規模としてそこまで出来るかどうかというのがありますから。 K:だから、太原麗子とか、尾藤イサオとか、即戦力は引き抜きましたけどね。 N:野獣会の繋がりですね。 H:それで、タイガースがブレイクしたので、スパイダクションとしても新しいGSを探そうとテンプターズを見つけたわけですね。 K:私等はそう言う話は全然知らないですね。何せ、当時は寝る時間もない位に忙しかったですから。 H:テンプターズを最初に見た感想はどうだったんでしょう。 K:松崎くんは礼儀正しくて、良い子だなと思いましたね。ショーケンは可愛かったですね。 H:テンプターズの演奏を初めて聴いた印象はどうだったんでしょうか。 K:うーん、何とかなるだろうと思いました。 H:何を演奏したか覚えていらっしゃいますか。 K:いや、それは覚えてないですね。 H:それはスパイダースのメンバーの前で演奏したんですか。 K:いやステージで見ました。オーディションとかは一切無かったですね。井上順ちゃんの時もそうで、私達が銀座ACBでのライブの後、私と田辺さんと克夫ちゃんで歩いていたら、野獣会の背広来て靴磨きをして貰っていて。 H:その頃はまだ10代でしたよね。 K:そうですね、野獣会バリバリで。 それで昭ちゃんが「お前、何曲歌えるんだ。」と聞いたら、「3曲です。」「じゃあ、明日来い。」と言うことになったんです。 N:それで順さんの持ち歌になってるんですね。 K:よく、克夫ちゃんにいじめられてましたね。「お前の声はファズトーンが、かかってるんだよ。」とか言って。(笑)
ヨーロッパツアーの写真を見ながら。 K:こんなね、コール天の上下でヨーロッパ行ったんですよ。 N:ヨーロッパの写真はみんなこの衣装ですね。 K:コート着ちゃいけないって言うんですよ、楽器運ぶから。寒かったですよ、11月にこれですから。 H:このツアーの間に日本では「夕陽が泣いている」大ヒットしたんですよね。 N:帰ってきて知ったんですか。 K:連絡が入ったんです。みんな、「嘘だろー」とか言ってたんですが、(羽田に到着して)コンコースに付いたら、ギャーッでしょ。それで、後ろのドアから出るように連絡が来たんですが、わたしだけ(席を外していて)連絡が伝わって無くて、前のドアから出たら、誰もいないんですよ。(笑) H:レコーディングはした物の、どうかなという感じは有ったんですね。 K:そうですね。それで、帰国してから、浜口先生の誕生パーティーが ありまして、そこで先生が、第2弾はこれをやるんだよと、「バラが咲いた」を歌われました。 H:ひょっとしたら、スパイダース版のバラが咲いたも有ったのかもしれませんね。何か、聞いてみたい気もします。 K:その時は(先生が)ギター1本でやったんで、なんか物足りないなと思ったんですが、後でレコードで聴き直したらいい曲だなと。 N:帰国されてからは、生活も激変でしたか。 K:そうですねえ。私は当時練馬にいたんですが、近所に中学があるんです。それで、家を出て車を取りに行く間、窓中から「きゃーっ」って生徒が並んでるんです。 I:そこに住んでると分かってるんですね。 K:家に帰るといつも周りに2・3人の女の子がいました。ですから、家を出る時は辛かったですね。周りに迷惑がかかると思って。車で出る時も(女の子が)「いってらっしゃーい!」って。(笑) そんなこともありましたが、段々と大人の人達にも分かって貰えるようになったのはうれしかったですね。 辛かったのは、足利の公会堂でやった時、 幕が開くと2・30人しかいないんですよ。 N:禁止令が出てたんですね。 注)1 K:教育委員会の人達が入り口の前にずらーっと並んでいて、父兄同伴でないと入らせなかったんです。 I:今でしたら営業妨害で訴えられそうですね。 K:八戸に行った時など大雪で電線が切れて停電になって。エレキバンドが停電で何するかって。(笑) H:大体全国行かれましたか。 K:佐渡島が行ってないですね。北海道は連絡船の頃ですね、行きました。夜行列車でね。売れてからは飛行機になりましたが。だから、売れないバンドからは、「売れてる人は良いな。」と嫌み言われた物です。 N:売れてからはどうでしたか。 K:最初はね、昭ちゃんがみんなにいつも笑顔で挨拶するようにしつけていました。しかし、(当時は)朝の6時に日活に入って、お昼からはジャズ喫茶を2軒掛け持ちして、それが10時頃までやって、その後TBSで録画撮りが、夜中の2時か3時頃まで有り、そしてまた2時間位で日活ですから。 I:それが毎日のように続くんですよね。 K:そうですよ。 アメリカ行く前なんかひどいんですよ、TBSが2時に終わるという約束で入ったんですが、終わったのが4時。で飛行機の時間が5時なんです。 電車にしても、スパイダースとタイガースは新幹線乗れないんですよ、乗車拒否で。(何故かと言うとファンが群がるので。) 電車が着いてドアが開くとファンがウアーッと押し寄せて、電車に乗る時も窓にファンが顔を付けて電車が発車できないんです。 飛行機も待合室には入れなくて、空港に着くと飛行機のそばまで車が来るんです。 H:田辺さんはミーティング好きと聞いていましたが。 K:そうですね。良くやっていましたね。間に、ゲームやったりしてましたが。管理のしっかりした人でしたね。かまやつさんはああ言う人ですからのらりくらりとしていてもちゃん意見は聞いていましたし、他の人も「はい、分かりました!」「カッペはどう思う?」って言われると「はい!そうです!」と。(笑) H:ステージの選曲はどなたが決めていたんでしょうか。 K:マチャアキ、順、かまやつさんで、最後に田辺さんに了解して貰って。 H:新曲に付いてはどうでしょうか。 K:それは誰かが持ってきた曲を、克夫ちゃんが譜面にして、みんなに配ったら、その日からやれますから。だから、初見が効かないと、だめなわけで最初は(私も)参ったもんです。 昔、パラダイスキングのバックをやった時は、譜面も読めないのに「読めます。」と言ってしまい、どうしたもんかと思っていたら、譜面はコードを書いた物だけで。(笑)
注)1当時は、教育委員会がGS禁止令を各学校に通達していまして、足利市がその先駆けとなったと言うことです。
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