第9回は、元スパイダースのベーシスト加藤充さんです。
私も3大GSのスパイダースの人とこうして話せるなんて夢にも思いませんでした。 加藤さんと知り合えたきっかけは後ほどインタビューの中でお話しします。 今回のインタビューは、私、服部(I)と 秦(H)、そしてライターで(有)トシ・コミュニケーションズ代表の中村俊夫さん(N)、ミュージシャンの高木宏真さん(T)、オイリー北川さん(O)で、所沢の某ファミレスで行いました。 I H:今日はよろしくお願いします。 加藤さん(以下K)こちらこそ。 H:いきなりこんな事を聞いてなんですが、昭和7年のお生まれでしたでしょうか。 K:いや、9年なんですよ、昭和9年の3月3日、おめでたい日なんです。 I:雛祭りですね。 K:日本中の女の人がお祝いしてくれるんですよ。(笑) H:と言うことは、スパイダースに入られたのはもう30近いお年だったんですね。 K:その頃は昭和14年生まれと言って、サバ読んでいましたね。(笑) I:それでは、もうすこし時間をさかのぼって、音楽との出会いからお話を聞かせてください。 加藤さんは京都のご出身ですよね。 K:はい。 I:音楽に目覚めたというのはいつ位でしょうか。 K:同志社の中学に入学して、1年の頃か、2年の頃か、学校の合唱団があるんですよ、キリスト教の。そこで音楽の授業が終わるとピックアップされて、教会まで行くんです。 その時代から音楽に入っていきましたね。 それから、中学から高校に入って、ウエスタンに憧れまして、丁度大学(同志社)でカントリーをやってるグループがありまして、そこに欠員が出るたびに、ギターやらベースやらを弾かされました。高校時代から大学のバンドに入って演奏していたんです。 I:当時レコードとか何か買っておられましたか。 K:レコードはまだ無かったですね。FENをよく聞いていました。ウエスタン物を。11時半から30分位あるんですよ、そこで色々と曲を覚えました。
I:では、レコードを初めて買ったのは・・・ K:エルビスが出た頃ですかね。 H:昭和9年のお生まれと言うことは、終戦時、11歳位ですよね。それまでの音楽環境というのは、ほぼ軍国歌謡だったと思いますが、それで終戦になり、何か変わったなと言う感じはありましたでしょうか。 K:私は兄弟2人で田舎に疎開していたんですよ、京都は空襲はありませんでしたが。 当時の京都は人がごろごろ寝転がっていたり、河原では人が死んでたりしていましたね。 H:当時、音楽というのは何か聞こえてきませんでしたか。 K:「りんごの唄」ですね。あれが一番印象的でした。(一同感心) 私も古賀メロディーが好きで、お袋がマンドリンをやっていたんですが、(その流れで) ギターを買って貰って、習いに行ったんですよ。でも3日間で止めてしまいました。(笑) H:その後先程のお話のように賛美歌からウエスタンまで行かれるわけですね。 K:賛美歌とウエスタンは似ているんですよ、曲の構成が。例えばA A A' Aとか、コード的にも共通したところがあるんです。ですから、ウエスタンにはすぐ入れました。 I:当時はウエスタンはまわりの人達にはどう受け止められていたのでしょう。 K:日本ではその頃は、マンボブームでして、ペレス・プラードとか来日してがんがんやっていました。 H:では、カントリーをやりつつジャズもやられたのでしょうか。 K:いや、ジャズはまだ聴くだけでしたね。 H:そのカントリーバンドはキャンプ周りもされたのですか。 K:そうですね、他には(同志社大の)OB会とか。一番困ったのは先生の名前を聞かれた時ですね。 H:そうですよね、言わば偽大学生ですから。(笑) K:でも、厳しかったですね、教えてくれないんですよ。いきなり蹴飛ばされたりして・・・速いとか言って。 その当時、大野克夫くんは高校2年だったかな、京大に受かる位の賢い秀才だったんですが、どうしてもウエスタンがやりたいので、大学進学をしませんでした。あの頃「You All Come」と言うビング・クロスビーの曲が流行ってまして、その間奏がスチールギターなんですが、(彼は)レコードがすり切れて真っ白になる位聞き込んでいました。それで、完璧に演奏できるんです。それを見て恐れ入った物です。 音楽やってなかったらまたそれなりの人生があったはずなんですが、どうしてもウエスタンがやりたいと言っていましたから。掘川高校という進学校に行っていましたんですが。 H:その辺りから大野さんとバンドを始めたんですね。 K:そうです。それで、ウエスタンをやりつつハワイアンも何年かやりました。それは当時ハワイアンブームというのもありましたので。 H:大野さんは、やらせてくださいとバンドに来たんでしょうか。 K:いや、上手いのがいるという噂を聞いて見に行きました。そこで、ウエスタンに興味を持って、どうしてもやりたいのでとバンドに参加しました。 H:そこからどのくらいバンドをやってられたのですか。 K:私は、大学を中退して、ベースキャンプ周りから始まってジャズ喫茶、当時京都の「ベラミ」と言ったナイトクラブとか、大阪は「なんば一番」、神戸が「白馬車」と他にも、6軒を順番に回っていました。 その時たまたま小坂一也さんが「ワゴンマスター」を解散して、独立して一人で来ていて、私たちは当時、関西では一番上手いと評判だったので、バックを勤めました。 H:そのバンド名はなんというのでしょう。 K:「サンズ・オブ・ウエスト」です。 N:そうだったんですか、確かに関西一と聞いていました。 K:克美しげるさんとか、佐川満男さんとか中村泰士さんがまだ、美川鯛士と言ってた頃ですか、そう言う人達と6カ所回っていました。山下敬二郎さんも良く来ていましたね。 H:そのバンドはそこで終わりになったわけですか。 K:そうですね、大野くんは我々が解散する寸前ですから、昭和35・6年ですかね、田辺昭知さんに呼ばれてスパイダースに行きました。快く送り出したのですが、私たちも仕事が暇になって来て2年足らずで解散しましたね、ジャズ喫茶も下火になってきまして。もう音楽は止めようと、実家の寿司屋の手伝いを始めました。 I:それはおいくつ位の時ですか。 K:もう24・5歳位ですかね。それで、大野くんは東京に行ったのは良いものの3日位で「もう止めます。」と田辺さんに言ったらしいです。(笑) N:何かいじめにあったとか聞いてますが H:ギターの方とかにいじめられたとか・・・ K:いや、そう言うことではなく、音楽的な見解の違いかと思いますね。私はまだいなかったのでよく分かりませんが。 H:と言うことは面識があったんですか。 K:そうです、共演したこともありました。それで、「克夫ちゃんもやってるから来い。」と電話があったんですが、私はもう寿司屋をやってるからだめですと断ったんですが、2年間だけで良いから来てくれと言われまして、親に頭を下げて2年間だけやらせてくれと言いました。 それで、東京駅に着いたら田辺さんとこから坊やが迎えに来てくれて、その足で川崎の「フロリダ」に連れていかれました。 H:それは自分のベースを持って行かれたんですか。 K:そうですよ、夜行列車でね。寂しかったですよ。ベースは電車のデッキの所に置いたんですが、 それで、フロリダについて、こういうバンドですよと見せて貰ったんですが、ジャズなんですよ。アート・ブレイキー風の。 N:その頃スパイダースは、そう言ったジャズバンドだったんですか。 K:いや、ジャズばっかりでなく歌謡曲もやっていましたが、何せスパイダースだけでは売れないので高木たかしとスパイダースとか、斉藤チヤ子とスパイダースとか、かまやつひろしとスパイダースとか(笑)歌手を付けてバックバンドをやっていました。ゲストシンガーのいない日にジャズをやっていました。 銀座に「美松」と言うでっかいジャズ喫茶があって、そこで田辺さんとジャズやっていたら、いきなりドラムの音が違うんですよ、変だなと見たら、白木秀雄さん 注)1だったんですよ。まいったなあ・・・って(笑)もう弾いてられませんでしたよ、かっこ悪くて。 H:それは白木さんが店に来て、田辺さんと変わったんですね。 K:こっちはジャズもかけ出しなんで、本当にかっこ悪かったですね。その時、共演してたのが、「マウンテンプレイボーズ」で、寺内タケシさんと、高木ブーさんのいたバンドですね。 H:ジミー時田さんのバンドですね、ベースがいかりやさんで。 K:ずーずー弁の「ジャンバラヤ」とか面白かったですよ。あんなユニークなバンドは初めてでしたね。
注)1当時のジャズドラム、人気実力NO.1のドラマー。
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