それでは、普段の「ルビーズ」はどういう演奏活動をしていたのか?
これは「ルビーズ」に限らず他のG Sもそうなんですが、TV、ラジオを除けば、
やはり「ジャズ喫茶」がメインの仕事の場だったそうです。
「ジャズ喫茶」については前回参照。
有名な店では新宿、銀座の「ACB→アシベ」、新宿の「ラ・セーヌ」、
池袋の「ドラム」なんてとこが一流。
まあ、レコードは出せなくてもこういう店に出演
出来れば本望だというようなビッグな店だった
らしい。と言っても、私はその頃、田舎の
一中学生だったので名前しか知りませんでした
けどね。
そういえば、新宿には今でも「アシベ会館」
ってのがあって飲食店ビルになってますが、
あれを「ロカビリー・G S記念館」
かなんかにしたらいいのにな・・・(当時の人がライブやったり、
レコ←ドやステージ衣装を展示したり。
黒沢神様、これ読んでたら企画してくれないかな・・・読んでる訳ないか)。
関西では「ファニーズ」後の「タイガース」がいた「ナンバー番」や「田園」「ベラミ」。
「ベラミ」は後年ナイトクラブになって、「山口組三代目」の田岡さんがヒットマンに
撃たれたという詰までありますね。今、突然思い出したけど「歌手志望」だった
同級生の庄子君のお兄さんがサクセスストーリーを夢見てアシベでボーイを
やっていた事があった・・・
昔はボーイをやっててスカウトされるという話が広く信じられていたのよ。
こんな話をしてるから先に進まないんだよな。
で、「ルビーズ」はどうだったかという話ね。「ルビーズ」は主に横浜のジャズ喫茶
に出ていたそうです。これは、東京の店は大手プロダクション(ナベプロ、ホリプロ)
ががっちり押さえていたためとか。因みに彼らは「ポリドール芸能」(ポリドール
レコードの子会社)という弱小(すんません)プロに所属していたそうです。
でも、横浜といえば「491」「ゴールデンカップス」「バニーズ」など実力派GSが
出たところですから、かなりいけてるバンドだったんでしょうね。
「ピーナッツ」なんて店では「491」ともよく共演したそうで「城アキラ」時代の
「ジョー山中」もよく知ってるとの事でした。
当時の「ジョー」氏は後年のR&B→ニューロックの雰囲気はまだなく、R&R
ギンギンという感じだったそうです。
この店は後年ディスコ(ヒエー、また死語だ。今のクラブ)に鞍替えして、メジャー
デビュー前の「キャロル」も出演していたと「エイちゃん」の『成り上がり』に書いて
ありましたな。
それともう一つ。在日米軍キャンプ回りというのがあったそうです。要するに
「進駐軍」の基地にいる「兵隊さんの慰問」ですね。
実はこれ、戦後芸能史に大きく関わってくる話なんですが、時は68年、国内では
高度成長といわれ、世界に目を向ければ「ベトナム戦争」たけなわの頃ですよ。
「明日ベトナムに行かされて、死ぬかも分かんない若い兵隊さん」の前で演奏する
訳ですね。
やはり、当局からは「著しく郷愁をそそるような曲はまかりならん、陽気なロックン
ロールをガンガンやってくれ」と言われたそうです。「朝鮮」特需で立ち直り
「ベトナム」特需でのし上がった国、日本。他人の戦争で金儲け、
何かおかしくないか?
『ティーンルック』1968年10月15日号より
文 写真提供: 秦 義人