コレクションO F『カルトG Sコレクション』
  (我がG S遍歴)4

 なかなか進まない「会見記」

前回は『恋のピストル』が

実は既にカラオケがあって

ギターが「沢田駿吾」氏の

ショクナイであったと言う話まででした。


 それでは、普段の「ルビーズ」はどういう演奏活動をしていたのか?

これは「ルビーズ」に限らず他のG Sもそうなんですが、TV、ラジオを除けば、

やはり「ジャズ喫茶」がメインの仕事の場だったそうです。

 「ジャズ喫茶」については前回参照。

有名な店では新宿、銀座の「ACB→アシベ」、新宿の「ラ・セーヌ」、

池袋の「ドラム」なんてとこが一流。

 まあ、レコードは出せなくてもこういう店に出演

出来れば本望だというようなビッグな店だった

らしい。と言っても、私はその頃、田舎の

一中学生だったので名前しか知りませんでした

けどね。

 そういえば、新宿には今でも「アシベ会館」

ってのがあって飲食店ビルになってますが、

あれを「ロカビリー・G S記念館」

かなんかにしたらいいのにな・・・(当時の人がライブやったり、

レコ←ドやステージ衣装を展示したり。

黒沢神様、これ読んでたら企画してくれないかな・・・読んでる訳ないか)。

 関西では「ファニーズ」後の「タイガース」がいた「ナンバー番」や「田園」「ベラミ」。

「ベラミ」は後年ナイトクラブになって、「山口組三代目」の田岡さんがヒットマンに

撃たれたという詰までありますね。今、突然思い出したけど「歌手志望」だった

同級生の庄子君のお兄さんがサクセスストーリーを夢見てアシベでボーイを

やっていた事があった・・・

 昔はボーイをやっててスカウトされるという話が広く信じられていたのよ。

こんな話をしてるから先に進まないんだよな。

 で、「ルビーズ」はどうだったかという話ね。「ルビーズ」は主に横浜のジャズ喫茶

に出ていたそうです。これは、東京の店は大手プロダクション(ナベプロ、ホリプロ)

ががっちり押さえていたためとか。因みに彼らは「ポリドール芸能」(ポリドール

レコードの子会社)という弱小(すんません)プロに所属していたそうです。

 でも、横浜といえば「491」「ゴールデンカップス」「バニーズ」など実力派GSが

出たところですから、かなりいけてるバンドだったんでしょうね。

 「ピーナッツ」なんて店では「491」ともよく共演したそうで「城アキラ」時代の

「ジョー山中」もよく知ってるとの事でした。

 当時の「ジョー」氏は後年のR&B→ニューロックの雰囲気はまだなく、R&R

ギンギンという感じだったそうです。

 この店は後年ディスコ(ヒエー、また死語だ。今のクラブ)に鞍替えして、メジャー

デビュー前の「キャロル」も出演していたと「エイちゃん」の『成り上がり』に書いて

ありましたな。

 それともう一つ。在日米軍キャンプ回りというのがあったそうです。要するに

「進駐軍」の基地にいる「兵隊さんの慰問」ですね。

実はこれ、戦後芸能史に大きく関わってくる話なんですが、時は68年、国内では

高度成長といわれ、世界に目を向ければ「ベトナム戦争」たけなわの頃ですよ。

「明日ベトナムに行かされて、死ぬかも分かんない若い兵隊さん」の前で演奏する

訳ですね。

やはり、当局からは「著しく郷愁をそそるような曲はまかりならん、陽気なロックン

ロールをガンガンやってくれ」と言われたそうです。「朝鮮」特需で立ち直り

「ベトナム」特需でのし上がった国、日本。他人の戦争で金儲け、

何かおかしくないか?

 

ハー、どーしても「ルビーズ」から離れるんだよね・・・

以下次号


『ティーンルック』1968年10月15日号より

 

文 写真提供: 秦 義人

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