ここは、いちくんこと、服部が身の周りのGSを中心としたオールジャンルな事に色々とレポートしていこう!と言うコーナーです。

 

第3回は、渡辺昌宏さんです。

 

 

  渡辺昌宏さんは、ザ・サベージのメンバーとして御高名ですが、今回はサベージ以前のお話も含めて、服部と秦が、渡辺さんがプロデュースする「ライブハウス“38”」の近くの喫茶店でインタビューしました。

 尚、今回はとてもたくさんお話して頂いたので、前後編2回に渡ってお送りします。

ライブハウス“38”


 例によって、渡辺さん(W)、秦(H)、服部(I )とさせて頂きます。

H:I:それではよろしくお願いします。

W:お願いします。

H:今日は渡辺さんに会えると言うので本当に興奮しています。
渡辺さんとのインタビューが実現すると聞いてから夢にまで見たくらいです。(笑)
今回は渡辺さんの所属していた「東京ベンチャーズ」(以後、東京Vとします。)のお話しも是非伺いたいと思います。

W:分かりました。

I:まず、その前に渡辺さんの音楽に目覚めた生い立ちからお伺いしたいのですが。
渡辺さんが音楽に目覚めたのは何時頃なのでしょうか。

W:ギターと共にですから、16・7才の頃ですね。

I:きっかけになったアーティストとかは、いたのですか。

W:曲ですね。分かりやすく言うと循環コードの曲(C Am F G7)が当時の主流になっていて、そう言ったオールディーズの、ダイアナとかオーキャロルとかを口ずさんでいました。

I:最初に買ったギターと言うのは?

W:ガットギターですね。それでコードを覚えました。それが目覚めのきっかけでしょうか。

I:初めて買ったレコードと言うのはなんでしょうか。

W:その頃家にはポータブルのレコードプレーヤーが有って、勿論電気ですよ(笑)
それで始めて聞いたのは平尾昌晃氏の「星はなんでも知っている」でしたね。
今でも良く覚えてるのは、(子供なんでそのプレーヤーの)扱い方を知らなくて、(電源を入れずに)針を乗せてレコードを手で回していて、随分ちっちゃい音だなあって(笑)。

I:バンド活動としては何時頃からはじめられたのですか。

W:僕のバンド活動としては、最初はウエスタンだったんですよ。

H:丁度ロカビリーの後ぐらいでしょうか。

W:同じ位でしたかね。
ロカビリーってのはロック&ヒルビリーの略で、僕はそのヒルビリーの方をやっていましたね。ヒルビリーってのは、今のC&Wでなくて単にウエスタンの事ですね。
当時流行ってたのが、ハンク・ウィリアムスとかハンク・スノーとか要するに3ハンクと言われてる人達の音楽ですね。それをコピーして歌っていました。

 そのうちに類は友を呼ぶと言うか、そう言う感じで人が集まってきて、最初の頃は電気楽器を使わないで、マンドリンとかW・ベース、生ギターと言ったマウンテンミュージックと言われる物ですね、それを毎週休みの日に京浜急行の金沢八景とか神武寺の方に友人がいまして、そっちに行って電気が要らないから山の方へ行って大きな声でやっていましたね。「I Saw The Light」とかね。

I:その後エレキを買ったのはずっと後なんでしょうか。

W:そうですね、しばらくずっとカントリーをやっていて、その後僕がリーダーになって、当時僕が住んでた東急大井線の荏原町の商店街会館の部屋を借りて毎週練習していたんです。

H:それはまだウエスタンですか。

W:そうです。それからしばらくしてメンバーが抜けたりして、瀬谷福太郎氏の2番弟子だった石黒怜(さとし)さんと言う方がメンバーになりまして、瀬谷さんと言うのは、「寺本圭一とカントリージェントルマン」でギターを弾いていた人で、因みに1番弟子と言うのが、ビレッジ・シンガーズの小松さんですね。それで、石黒さんが、自分で改造した電気ギターを持ってきて、彼は工業高校を出ていたのでそういう事が出来たんですね。
それで、それを練習に持って来たんですよ。丁度その頃ベンチャーズが台頭してきたんですね。
そこで彼がコピーした「パイプライン」とか「ウォーク・ドント・ラン」を弾いたんです。
それまでは(自分は)ウエスタンで、ズンジャカ、ズンジャカやってたのが、(彼が)デケデケデケデケとやりだしたので、うぉーっと思ったんです。(笑)
それでそれをきっかけに、今まで僕も歌ってギター弾いてたのをやめたんです。

そして、その後僕は、テスコのセミアコのギターを買ってきまして、その辺りからエレキに転向しましたね。

H:テスコのギターってのは当時いくら位したんでしょうか。

W:いやあ、もう覚えてないですね。

I:その後メンバーは代わったのでしょうか。

W:そうですね、リズムセクションは大事なのでその後ドラマーは色々変わりましたね。ギターは石黒さんと僕でしたが。それで、ベンチャーズの曲をたくさんコピーしてダンスホールとかに出てました。

H:それは高校生くらいの頃でしょうか。

W:そうですね、ベンチャーズの他に、フォークの曲をエレキにアレンジしてやったりしましたね。
その後、色々メンバーが代わったりしながら場数を踏んで一寸ギターに自信が付くようになってきました。

H:当時「勝ち抜きエレキ合戦」の様に色々有ったエレキコンテストのような物は出られたのでしょうか。

W:そうですね、少しは出たと思うのですが余り記憶に無いですね。

I:その後はどうされたのでしょうか。

W:僕は、その当時川崎にフロリダと言うダンスホールが有りまして、いわゆるハマジル(横浜ジルバ)の発祥地のような名所になっているのですが、そこに「スペースメン」と言うバンドが出ていまして、スペースメンと言うのは、ファースト、セカンド、サードと3本のギターと、ベース、オルガン、ドラムに、ペット、サックスが1本と言う大所帯のいわゆる大人のバンドでしたが…

Hそれは、「亀井信夫とスペースメン」ですか。

W:そうです。

H:スペースメンというのは、「亀井信夫とスペースメン」とか、「田代久勝とスペースメン」とか、「ザ・スペースメン」とか色々有る様なんですが。

W:田代久勝さんと言うは、「田代久勝とウエスタン・キャラバン」と言うバンドをやっていらして、そこからスペースメンにリードギターとして参加された方で、当時テクニックはピカイチの人でしたね。
それで、フロリダで、スペースメンのジュニアバンドを作ろうと言う話が出てきたんです。当時僕は、そこに(フロリダ)良く遊びに行っていたんで、それで、そこの遊び仲間から、スペースメンと言うバンドでギターを募集していると言う話を聞いたんです。
それで受けて見ようと言う事になって、ステージの横の楽屋で田代さんの持っていたジャガーを借りてその場でアンプに繋がずにベンチャーズの曲を少し弾いたんですよ。そうした所、合格と言う事になりました。

H:それがプロになるきっかけだったんですね。

W:そうですね。それでおふくろに話してプロになるって言ったら、ああ言う所は大変だからって反対されたんですが、おばあちゃんは応援してくれて、当時から、出ていた雑誌をずっと集めてくれていました。
それが僕が二十歳の時ですね。
スペースメンは、とてもうまい人ばかりでしたから凄く勉強になりましたね。

それでフロリダの社長はビクターのディレクターとかと付き合いの有る人で、スペースメンジュニアと言うバンドを立ち上げる事にになりました。そこで「あと5分だけ」と言うシングル版を出しました。

H:それは「ジャイアンツ」ですね。

W:そうですね、スペースメンジュニアがジャイアンツになる前ですね。
それで、バックの演奏だけはスペースメンがやったんですよ。
それで、2曲目を出そうと言う話が出てきたときにバンドの名前を変えたんですね。その後、ジュニアのメンバーとしっくり行かなくなってきた時にスペースメンの方に行かないかと言う話を貰いました。

H:スペースメンと言うと、フロリダで「シャンティーズ」と共演していましたね。

W:そうですね、お客さんを呼ぼうと言う事でシャンティーズを呼んだんですが、下手でしたね。(笑)
田代さんと二人で見てて、「こりゃ、だめだね。」って。(笑)

H:当時は、外タレも良くそう言う場所でやってたんですか。

W:そうですね。シャンティーズに関してはどう言う経由で呼んだのか分かりませんが、そういう事は有りました。

そんなこんなしているうちに、「東京ベンチャーズ」から誘いが来ましたね。

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