第7回は、菊谷英紀さんの3回目です。

 

ルビーズからセルスターズへ

 

 


I:平田さんとはどういういきさつでお知り合いになったのでしょうか。

K:ピンキーとキラーズにいらした、ギターのエンディ山口さんが平田さんのバンドにいらっしゃいまして、それで、彼がピンキーとキラーズを作る為に抜けたときに、僕を平田さんに紹介したんです。

当時僕は、ルビーズをやめて、仲間のバンドの所に世話になっていたんです。
それで東京のナイトクラブとかで演奏していたんですが、平田隆夫とハミングバーズ(セルスターズの前身)のことは業界では有名だったので、僕も将来的にはロックじゃなくてアダルトなバンドがやりたいと思っていたんです。そこへ欠員が出来たと言うことで僕が加入することになりました。
僕は待ってましたという気持ちでしたね。
ところが、行くと譜面が山のようにあって、今まで弾いたことのないような曲ばかりで、これはえらいバンドに入ってしまったなと思いましたね。

I:エンディ山口さんとはどういうお知り合いだったんですか。

K:彼とはルビーズを組む以前に、バンド仲間の横のつながりから紹介があって、同じバンドでやっていたことがあったんです。
それで、その後、彼は平田さんのバンド、ハミングバーズに入ることになるのですが。

I:その当時、すでにセルスターズとしてのオリジナルはあったのでしょうか。

K:いくつかありました。その後にレコード会社からいくつかオファーが来ましてから、がんがん書き始めるようになりましたが。それで、僕が入ってしばらくしてから、レコードデビューのメンバーになりましたね。その間は、少しずつメンバーの移動はありました。

I:当時のオリジナルは、やはりラテンっぽい物だったのですか。

K:そうですね、歌詞は日本語なんですが、曲はそうでした。リズム物が多かったですね。

I:そうして、「悪魔がにくい」が大ヒットになる訳ですが、「悪魔がにくい」は、どういう感じで売れていったのでしょうか。

K:これはですね、僕らがホームグラウンドにしていた新宿の小田急デパートの14階に「バルーン」というニュートーキョーさんの経営してるレストランがあったんですよ、ガラス張りの。

I:スカイレストランですね。

K:そうそう。当時は京王プラザも出来て無くてそこが一番高かったんですよ。
それで、そこが僕らのホームグラウンドだったんですけど、そこに出ていたら、色々な人から、「あそこにこう言うバンドが出ているぞ。」と評判になりまして、レコード会社の人達が見に来るようになったんです。
そこは、4:00〜10:00迄やるんですよ。早い時間にはバンドマンは見に来るし、レコード会社の人達も見に来ると言うことでセルスターズの事務所の人から「今日はキングの人が来るよ。」とか「明日はどこどこの人が来るよ。」とか 聞かさせるんですよ。
それで僕らも一生懸命演奏するんです。それがまあ、オーディション代わりだったんでしょうね。

それで引き合いが色々なところから来まして、僕らの方がレコード会社の選定をしたんですよ。

H I:はあー(驚)

H:こう言っては失礼ですが、ルビーズとは大違いという感じですね。

Kそうなんですよ。もちろん内容的なこともですけどね。僕なんかもう首になるかと思いましたよ。ギターも下手でしたし…
ただ、僕のキャラとかを平田さんが買ってくれていまして、 それで何とかやってきたって感じです。

I:その当時から、女性ボーカル二人でやっていたのでしょうか。

K:いや、最初はレミちゃん一人だったんですよ。それが、病気を患ってグループを2ヶ月ほど離れていたんです。それでトラ(エキストラ)を入れなきゃいけないと言うことで、他のバンドで唄っていたあいちゃんに頼んでやって貰ってたんですが、レミちゃんが直ってグループに戻ってきた時、あいちゃんがこのまま、ここでやりたいと言ったので、それで二人になったんですね。

H:確かに、よくある話ですね。

K:そうなんですよ。それで、これでやっていこうと言うことになりました。ハーモニーも厚くなりますし、当時、セルジオメンデスとブラジル66というグループがありまして、それがセルスターズの基本となりました。同じ編成になったんですよね、それで平田さんがそういう風にアレンジしたり、コピーしたりしてそれで又、ファン層が広がってきたんですよ。そう言うアダルトな音楽をやると言うことで。(注1)
つまり、R&Rでない、ラテンの物をやったり、カンツォーネをやったり、ビートルズをアレンジしてやったりと…

I:「悪魔がにくい」がデビュー曲に決まった背景は何でしょうか。

K:それも、その「バルーン」が絡んでくるのですが、そこはジャズ喫茶ではないのですが、お客さんからリクエストを取るんですよ。お客さんも常連さんが、僕らのスケジュールに合わせてきてくれるんです。
それで、僕らが、「リクエスト有りますか?」と聞くと、お客さんが紙に書いて持ってくるんです。そうして、そこで一番リクエストが多かったのが、「悪魔がにくい」だったんです。

H:やはり、沸いてくるように売れてきた訳ですね。

K:ただ、「バルーン」に関してはリクエストが多かったのですが、レコードを発売してからは全然だめでした。
あの当時から、コンピュータで毎日の売り上げの統計を取っていたのですが、ゼロに等しかったですね。 出してから、数ヶ月間、本当に売れなかったです。

まあ、売り出しのキャンペーンも少なかったんですけどね。

それで、そのうちにある日、山口放送というローカルのラジオ局から賞状が送られてきたんですよ。
貴殿の「悪魔がにくい」が当番組の ヒットチャートの第一位を4週間だか5週間だか連続で取ったという。そこから色めきだってきましたね。
そして有線から全国放送へと広まっていきました。
それで、これは絶対いけるなと言うことになって、キャンペーンも1日に、4カ所か5カ所、楽器を持っていくんですよ。

真夏の暑い時でしたね。大きな音を出すから人も集まってきて、そうすると僕が、「さあ、買ってらっしゃい!」って言うんですよ。(笑)

それで売れ出すと不思議な物で、僕らもアイドルでもないのですが、デパートでのキャンペーンが中止になったこともありましたよ。人が多すぎて。

僕もそのころはいくらかは可愛かったですけどね。(笑)30年以上前ですが…S46年ですからね。

それで、売れ出したら止まらない物で、「悪魔がにくい」のレコードプレスが、一日に5万とか6万の発注があって、とてもプレスが間に合わないのですよ。それで、品切れ状況がずっと続いたことがありましたね。

もし当時に今のようにCDを焼くことが出来たなら、どのくらい売れたか分からないって、徳間音工の人が言ってました。そのぐらい売れましたね

レコード会社の本社に、レコード店の人が来て、50でも100枚でも良いから売ってくれって言ってくるんですよ。

H:電話とかじゃなくてですか。

K:そうです。実際に来たそうです。手に入った(レコード店の)方は、レジにおいていたそうです。(笑)
それだけ一日に何枚も売れたそうです。ましてや、あれは下請けのプレス工場だったんですよ。 徳間音工は工場を持っていなかったんで。
それで、僕らのだけやる訳にも行かなかったので すが、本当に今の環境だったらどのくらい売れただろうという話が今でも出ますね。
まれなケースだったようですね。とにかく全然売れなかったので、いきなり売れた訳ですから。

I:やはり、それは良い曲だったからですよね。

K:そうですね、色々な要素があると思うのですが、GSが衰退して、みんなが新しい物を求めていたときだったんでしょうね。当時は、もうGSもほとんど影が薄くなっていて、沢田研二さんもソロになっていましたね。「悪魔がにくい」が売れてスタジオでお会いしたときに、「しばらくでした。」と挨拶されました。

H:沢田さんも、「あのルビーズの…」と思われたでしょうね。

K:そうですね。

 

ハチのムサシ店内のセルスターズのレコードジャケットの数々。

 

H:当時は、歌番組というと夜のヒットスタジオがありましたが…

K:そうですね、それにも出ましたし、当時は月曜になると渋谷公会堂で紅白歌のベストテン、火曜日はTBSに行ってと、各局がベストテン番組を持っていまして、そして週末になると月曜の朝まで各地を回るんですよ。労音とか民音とか、キャバレーのショーとか、がんがんやりましたね。

H:寝る間もない訳ですね。

K:そうです。スケジュールがバッティングしてもめたこともありましたし…

I:ルビーズの頃とは、180度変わってしまった訳ですね。ご自分の気持ち的には、どう感じられましたか。

K:そうですね、よくこう言うことを聞かれるのですが、以前は自分たちで楽器を運び、列車の車掌さんにお願いして(連結器の間とかに)楽器置かせて貰ったり、その辺で立って寝たりした頃があったんですよ、それが、明くる日急にグリーン車に乗るようになって、泊まるところもただの旅館から、一流ホテルに変わったんですよ。
ただ、そう言うところが変わっただけで、僕自身としては、自分が変わったという記憶がないんです。
でも、売れてよかったなと言うことはこう言う仕事をしてますからそうは思いました。
色々な人に認知される訳ですから。ルビーズでやってた頃はそう言うことはありませんでした。好きでやってたのですから、それはそれで良いんですが…

H:そして、「ハチのムサシは死んだのさ」につづくわけですが、これは、作詞が内田良平さんですが、これはどういういきさつでこうなったのでしょうか。

K:当時、内田さんは日活の悪役スターとして活躍されていた訳ですが、内田さんが、虫とか昆虫を題材に詩をいくつか書いておられたんです。
それを、徳間音工の立川さんというディレクターが内田さんと交流があったのですが、それでその詩を持ってきたんです。それを平田さんが見まして、素材がとっても新鮮で面白いと言うことなので、歌になるように詩を作り直したんです。それは、補作の方がいたのですが。
それで当初はアルバムに入る予定だったんです。ですから、「悪魔がにくい」とは同じ日に同時に録音しているのです。

H I:へえーそうなんですか。(驚)

K:それが、社内で評判になりましてシングルで出すことになりました。、あの歌の背景に当時の社会情勢を反映する物、大きな物に向かって立ち向かうとか、色々と世間では言われていたのですが、僕たちは歌謡曲というとらえ方をしていたので一切そう言うことは口にはしませんでした。

しかし、「悪魔がにくい」の勢いがありましたので、出したら、即売れ出しました。

H:インパクト的にはこちらの方が強かったかもしれません。

K:今だにそうですね。曲は「悪魔がにくい」の方が好きと言われる方が多いのですが、セルスターズというと「ハチのムサシ」というイメージが付いていて。
それで、当時、東京音楽祭というのが、TBSで有りまして、これに出品したんですよ。 そうしたら国内大会で1位になりまして、その勢いも有りまして、すぐベストテンにも入りました。
世界大会では落ちましたが…

I:それは、確かヘドバとダビデが、「ナオミの夢」で出たときではなかったですか。

K:そうだったかもしれませんね。当時無名のフリオ・イグレシアスも出てました。
多分その大会かと思います。世界大会までは時間がありましたので、開催された頃はもう、僕らの曲は鮮度が落ちていたんですけどね。

H:アルバムの中で、橋場 清さんが書いていらっしゃいますが、この方はルビーズ時代から書いておられると思いましたが、この方はどういう方なのでしょうか。

K:舞台の曲なんかも手がけていらっしゃった作曲家の方なんですが、(セルスターズで)久しぶりにお会いしました。5年前にお亡くなりになったのですが、 フジテレビの「浮世絵女ねずみ小僧」という番組がありまして、その主題歌を橋場先生に書いて貰いましたね。中ヒットくらいしましたが。
そんな思い出がありますね。

 

ハチのムサシ店内の壁に貼ってある ’71年日劇での
ステージ写真(上のモノクロ写真。)

 

(注1)セルスターズは女性二人がコーラスをして、男性がユニゾンで唄うというスタイルですが、セルジオメンデスとブラジル66も、このスタイルを取っていました。